寂円寺徒然日記
お盆を終えて。

 

夏を迎えるとふと思いだす言葉があります

 

「ケイ蛄(けいこ)春秋を識らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽の節を知らんや」

 

これは曇鸞大師のお言葉です。曇鸞大師は中国の僧侶であり、七高僧の中の一人にあげられている方です、若くして出家をされて、仙経を学んでいたのですが、のちに菩提流支という方に出会い、仙経を焼き捨てて本願をあきらかにされました。

 

例え話の上手な方だったそうでいくつかの例え話が伝わってきています。

その曇鸞大師のお言葉が冒頭の一文になります。

 

ケイ蛄とはセミのことです。セミは春や秋を知らない、春や秋をしらないセミがどうして今が夏(朱陽の節)だと知ることができようかという意味です。

 

セミは夏の生き物と私たちは思っていますが、とうのセミたちは、7年間地中で生活して、そして、夏になって地上に出てきて、三週間ほどで死ぬと言われています。ですからセミは春や秋を知りませんし、ましてや自分の出てきた季節が夏であるということも知りません。

 

これは例え話なのですが、これはなにを例えているかというと、セミとはつまり私たち人間のことを指しているそうです。

 

今この瞬間が夏であるということは、春秋冬をしるからこそ、そこからの比較で夏をしることができる、自分の住む世界の中だけにいては、そこにいる自分自身のことはわかっているようでなにもわかっていないということです。そしてそこで必死に命を精いっぱい燃やして、この瞬間を消耗して生きているということです。

 

仏教では私たち人間は「迷いの世界」にいると教えています。

ところが、私たちは一向に迷いの世界にいるという自覚がありません。

 

自分が迷っていることすら気づいていないわが身を「凡夫」という言葉で表されます。

といいますと、多くの人は生活の中に、人生の中に、迷いも苦しみもありますというかもしれません。

 

しかし、私たちの根源的な苦しみは社会や、世間というところよりももっと深い根源なところからくるということが仏教の教えです、表面的な苦を解決しながら生きていく中に、その根源的な苦を正しくうけとめることを忘れてしまっているというわけです。

 

人間の視野というのは、どこまでも自分の視点からしかみることができません、そしてその視点は世間の価値観の中で、180度かわってしまうくらいに不確かなものを頼りにしています。

しかし不確かなものを頼りにしているということにもなかなか気づくことができません。

 

その気づきへの第一歩が、まずは自分自身の置かれている状況を正しく受け止めることつながってきます。

 

いざ自分を一歩引いてみたときに、生きることの無常、そして現実の非情、そういうものに目を背けることができないことに気づかされます。その一つ一つをしっかりと受け止めた時に救われるしかないわが身が浮き彫りになります。

実際にはそれが何よりも難しく、その現実を受け止めようと思っても、自分の中でまたいろいろな都合や理由をつけてフィルターをかけてしまいます。

 

しかしながらその現実の中にこそ、人間のはからいをこえた命ということがある、命は自分の中から発露しているかのようで、たくさんの絶妙なバランスの上になりたっているという事実を見つけることができます。

 

そこに「生きている」という意識から「生かされている」という意識への変化も生まれてくるのかもしれません。

 

「月影の至らぬ里はなかれども、ながむる人のここにぞ住む」

親鸞聖人の師であられた、法然上人の詩があります。

 

そして、そのありのままのわが身に気づかされた時に、この身にすでに月の光がさしていることに気づかされる。そしてこの瞬間、今の季節がなにかもわからないまま命を燃やし続けているわが身を一歩引いて知らさせていただくことができる。

 

この「一歩」こそがとても大切な「一歩」であるように思います。

 

お念仏とはその一歩を歩ませてくれるものです。

 

その一歩を歩みだすために、まずあるがまま、目の前にある現実にしっかりと意識をむけていくこと、その感触をひとつひとつ確かめることを、味わいながら生きるということになるのではないでしょうか。

 

迷いの世界にいながら迷っていることに気付かない。そんな我々衆生を「目覚めて下さいよ。迷ってますよ」と揺さぶりかけてくる声が「南無阿弥陀仏」なのです。

 

それは「悟りの世界」からの呼びかけです。その世界からの働きかけがなければ、私たちは

到底「迷いの世界」にいることを自覚することはありません。

 

浄土真宗に帰すれども

真実の心はありがたし

虚仮不実のわが身にて

清浄の心もさらになし 

 

親鸞聖人のご和讃の言葉です。

 

真実の心(悟りの世界)に照らされて初めて虚仮不実のわが身が見えてきます。そこに気づかされてはじめて、謙虚にあろうと自然と頭が下がるのかもしれません、その時、私たちは迷いの世界にいながら、迷いの世界を超えた世界を知ることが出来るのかもしれません。

 

副住職

 

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