寂円寺徒然日記
自由。

あっというまに12月です。

6月に小学生を対象とした学童保育「ratoon」を立ち上げてはやいものでもう半年がたちました。

その中で気づかされたことがあります。

 
それは子どもにとって「自由」というものは、
とても難易度の高いものであるということ、
そしてその難易度をあげてしまっているのが「評価」であるということです。
 
ratoonにきた子ども達をみていて、
さあ自由に好きなことをしていいよというと、
大抵の子は、自分の知っているもの、
得意なものを手に取って挑戦をします。
 
それを突き詰めていえば、
はじめて挑戦してもそこそこできそうなもの、
過去にいい評価を受けたことのあるものという分類ができます。
 
それでもはじめてみるものや、
見たことがないものへの好奇心は隠しきれず、
そこから湧いてくる挑戦したい想いと同時に、
うまくできないこと、
評価されないかもしれないことへの怖さみたいなものを
意識的にも無意識的にも天秤にかけているようにもみえます。
 
子どもはいつだって自由かというとそんなことはなく、
子どもほど周りからの評価をきにして、
自分の分限の幅を空気の中から読み取ろうとしている、
そしてなによりも周りからの期待に一生懸命答えようとしています。
 
その天秤のバランスをとりながら、少しづつ好奇心の扉を開いているように見えるのです。
 
そのペースは大人の思うよりもとてもゆっくりで、
その扉を大人が無理にこじ開けないようにしたい、
ゆっくりと扉を押していくペースを考えなければなりません。
 
ratoonにきた子がはじめに口にする、
これ自分でやっていいの?
うまくできないかもしれないよ?
子どもがつかっていいの?という言葉。
その言葉はそのまま子どもたちの生活や置かれている状況の写し鏡なんだろうと思います。
 
どんなこともトライアンドエラーを繰り返して、物事は深度を深めていくことができる。その中で想像を膨らませ、創造を楽しむことができる。
 
失敗してもいいんだよと大人はいうが、
子どもが安心して失敗できる環境をどれだけ整えられているのだろうか、
無意識的にも成功ばかりを評価しているのではないだろうか、
大人が率先して失敗し、トライアンドエラーをする姿勢をみせていられるだろうか。
 
ratoonを始めるときに、子どもたちが自由に好きなことをできる場所にしたい、そこで想像や創造にあふれる環境をつくりたいと思いました。
 
しかしはじめてみて、まずでばなで気づかされたのは、
いかにその環境を周りにいる大人が狭めていたのかということです。
 
子どもの行動は本当に写し鏡です。

まずは一つづつ。
 
安心してトライアンドエラーすることで、やっていいことの分限をひろげ、その経験をつながりの中で共有できる場所づくりをしていきたいと思います。
 
環境をつくるということはとても難しい。
難しいというと十把一絡げですが、
 
どんな場面でも「いい環境」というものに定義があった時に、
 
そこには物質的な充実というものの占める割合よりも、

そこを作る目に見えない要素、言葉や姿勢、想いや願いというものの占める割合が大きくなっていなければいけないのだということを実践をもって感じる今日この頃です。

副住職
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