寂円寺徒然日記
泣いている子ども。

幼稚園では子どもたちも新生活に慣れ、思い思いに自分たちの遊びに没頭できるようになってきました。それでも幼稚園にいるとどこかでだれか泣いているということはよくあります。

泣いている子どもを見ていて感じたのですが、この時期幼稚園の中で子どもの泣いている理由は、大抵は、寂しいか、不安か、もしくは痛いとか、眠いとか、暑いとか、お腹が空いたとか、おしっこをもらしたとか。そのくらいの範囲の中にあります。

いわばその不快な要素を取り除いてあげれば、子どもは満足して表情もぐっとよくなり笑顔になれます。子どもにとっての笑顔の条件というのは、いかに不快要素を取り除けるかと言うことで、その不快な要素の深度もそんなに深いものありません。

しかし、それが大人になると、不快要素の根っこも少し深くなります。それが何で深くなるのかといえば、寂しいとか、不安だとか、そういう気持ちに気づかないふりをして、時に悲しくても泣くこと堪えてまで心の奥底に押し込むからじゃないでしょうか。押し込んで気づかない振りをしているうちに、いつのまにか根っこを深く張り巡らせてしまうのかもしれません。

それと、もう一つ決定的に大人と子どもで違うのは、大人というのは、仮に目に見える不快要素を取り除けたとしても、それだけでは飽きたらずに、もう不快でもないのに、より快楽を、より快適を、得なければ笑顔になれないときがあるということです。今の自分の苦をマイナスするだけでは飽きたらず、いかにプラスして、いかに自分になにかをのっけるのか、そんなことばかり考えてしまうことがあります。

しかし、本来、幸せというのは、なにも苦のないことであり、そしてその苦というもののほとんどは、自分がより何かを得たいと思う心がうんでいるというスパイラルの中にあるような気がします。

子どもが不快要素のない状態で遊びに没頭しているときの幸せそうな顔は、大人になるとなかなかできないものです。

そしてなによりも厄介なのは、それがわかっているのにもかかわらず、もっともっとというこの心と、その心を反射的にうみ出してしまうこの脳。それを生まれながらに持ち合わせている人間がいかに生きていかねばならないか、それを「問う」心を忘れてはいけないように思います。

副住職



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