寂円寺徒然日記
いち抜けた。

園庭で子どもたちが遊んでいるのを眺めていてると、一人の子どもが「いち抜けた」といって遊びから抜けて他の遊びをし始めました。

そんな光景をみていて、ふと「いち抜けた」という言葉は実はものすごい言葉だなと感じました。大人になると諸々、本当に諸々のしがらみや関係が作用して、色々なものから「いち抜け」できなくなります。そんな「いち抜け」できないものの中にこそ苦しみが振ってくるように思います。

子どもたちがいとも簡単に「いち抜け」していていくのを見ながら、自分にはこんなにもいとも簡単になにかから「いち抜け」できるだろうか、いつか「いち抜け」できる日がくるのだろうか。はたまたいつにになってもできやしないのか。そんなことを考えてしまいます。

しかしながら本当に「いち抜け」できない理由は決して外的なものではなくて、どこまでいっても自分の内側からくるものなのかもしれません。それは、執着であり、見栄であり、こだわりであり、つまりは「欲」と呼ばれるものから生じるものであるように感じます。

そう考えますと、つまるところ「覚り」というのも「いち抜けた」であるのかもしれません。園庭で遊ぶ子どもたちを眺めながらそんなことを思いました。

副住職

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