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2011年を振り返り。
| コメント(1) | 11年12月29日
今年も残すところあとわずかとなりました。
今年は親鸞聖人750回御遠忌に法然上人800回御遠忌の年。その節目の年に東日本大震災がおきました。
この1年、震災があったことで、自分自身、僧侶としてなにができるだろうかということをよく考えました。また、震災後に原発などの問題もあり、多くの人達が漠然とした不安を抱えている状況の中で、様々な活動をしている僧侶がいることを目の当たりにすることで、自分がどういう僧侶になっていきたいのかということもよくみえたような気がします。
その中で1つ強く感じたのは、やはり仏教は人のいるところにあるものなのだということ。人のいるところに苦しみや悲しみがあって、僧侶はその人の顔の見えるところにいるべきなのだと思います。
あたりまえで簡単なようだけど。
人の顔を想定しないで、ああでもない、こうでもない、顔も想像できないところで議論を繰り広げると言うことが当たり前のようにあちらこちらでは行われているように感じます。
復興や原発の議論1つとってもそうです。
避難区域にいるのかいないのか、家族を失ったか失っていないのか、住んでいる場所や営んでいた仕事によっても、そこにある答えは様々に変化するのだと思います。むしろ様々であって当然なのだと思います。
今回の震災を通して、その様々にある人間模様の一つ一つの顔の見えるところに仏教はあって、僧侶がいるべきであり、その苦しみの数だけ僧侶のあり方があっていいのだと思うようになりました。
教えは八万四千もあるのだといわれていますが、これこそがまさに待機説法ということなのかもしれないと思います。
今回震災のについて色々と考えているときにふと、救うっていうのは掬うって言い換えてもいいのかもしれないと思いました。
掬う為には、そっと両手を差し出せる距離にいなきゃ駄目なんだろうと思います。
願わくば、自分は人の顔の見えないところでなにかを動かすような僧侶になるのではなく、自分の手で直接誰かの顔を見て何かを掬えるような僧侶になれたらと思うようになりました。
今回の震災を通してこうして、自分自身を見つめる機縁をいただいたこと、そしてそれがこの御遠忌の年であったということで自分の中ではこの1年は忘れることができない年になりそうです。
まだまだ東北の方々のご苦労には計り知れないものがあります、一日もはやい復興と安穏とした日々を送れることを御念じ申し上げます。
そしてまた来年も引き続き自分のできることを一つ一つやっていこうと思います。
今年もたくさんの方々にお寺にお参りにいただきありがとうございました。
来年もまた宜しくお願い致します。
よいお年を。
副住職




