寂円寺徒然日記
小鳥のお墓。

先日、幼稚園で小鳥が亡くなって、子どもが呼びに来たので、一緒にドングリの木の下に小鳥を埋めました。そして、今日だけは花壇から花を摘んできていいよといったら、子どもたちが何人か花を摘んできて、小鳥を埋めたところに花を敷き詰めていました。

そして自分が目を閉じて手を合わせたら、みんながそれを真似て手を合わせていたのですが、それをみていた3歳の子どもが、なんでそうやって手を合わせるの?と聞いてきました。それはシンプルだけどとても深い質問で、一瞬なんて答えようか迷ったのですが、こう答えました。

例えばさ。

ピースしたまま、ごめんなさいっていうのはちょっとおかしいよね。

朝起きて万歳しながらおはようっていうのもおかしいよね。

あとさ、おうちに帰るときに変な顔したまま、さようならっていうのもおかしいよね。

こうやって手を合わせるのはね。

ありがとうを伝えるときのポーズみたいなものだよ。

いままでありがとうっていうときにはこうやって手を合わせるんだよ。と。

きっと教義とか、教えとかそういうものを厳密に突き詰めていったり、手を合わせる意味とかをちゃんと説明しようとしたら不十分だし、いい加減なように聞こえるかもしれないですが、それを聞いた子どもたちは、ふ~んといいながら、目を閉じて手を合わせて、いままでありがとういった。

3歳の子どもにそれを伝えているときに。

こういうのを方便というのかもしれないと思いながら、これから先の人生でその言葉の意味の何十分の一でもいいし、自分のいった言葉がどこかにつながって、その言葉に体感が伴ってくれたらいいなと思いました。

なんか改めて、子どもたちの中に湧いてきた、本人すらもまだそれがなんなのかわからないような気持ちとか、そういうものにそっと手を添えて、その気持ちにベクトルを向けるということはとても大事な事で、とても責任の重いことなのだということを感じたような気がします。

そして、こういう場面や、こういう日常に立ち会えるということはありがたいことだなと感じます。

幼児教育は、宗教にも通ずるところがたくさんある。頭でっかちになって、言葉遊びばかりする自分をいつもはっとさせてくれるのは、だれでもない子どもたちだったりするのです。

副住職
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