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宗教の本分。

| コメント(2) | 11年05月12日

例えば、だれかすごく嫌な人がいるとか、どうしょうもなく理不尽な思いをしたとか、そういう愚痴を聞くときに、目の前の人の気持ちをくみ取って、そうだね、わかるよとか。ほんとそれは嫌な人だね。本当に一方的に理不尽だね。と言えばきっと話している方は、自分の気持ちをわかってくれると思って肩の力が抜けたり、楽になったり、救われるのだろうと思います。

そこで、相手にも言い分はあるし、なんでその人がそういうことをいうか考えてごらんよ。自分の中にも落ち度はないかい?とか、一方的に理不尽だというけど、自分も同じようなことをしたことはないかい?とか言おうものなら、あいつなんだよ、全然自分のことわかってくれない。わかったような顔して腹が立つ。言われるのが落ちだろうと思います。

しかし先日ふと思ったのは、

もしも、気持ちが落ち着いて、冷静に自分のことを振り返られるようになった時に、一方的に自分の言い分をうけいれてくれて、一緒に誰かの悪口で盛り上がったり、世の中の理不尽を無条件で認めてくれた相手と、その時に自分の見えない部分を指摘して、思い通りの言葉をくれなかった相手がいたとしたら、きっと後者の方がなにかを自分の中に残してくれるような気がします。

きっと気分を変えれば乗り越えられる問題くらいなら前者でいいのかもしれませんが、人生には決して目を背けるだけじゃ乗り越えられない問題にぶつかるときがきます、その時に自分が相談したいと思うのは後者だと思ったのです。

もちろんいつも偏屈に、相手の言うことを否定するのではなく、ちゃんと気持ちをくみ取りつつも、自分の内面に目を向けさせてくれるような言葉を選んで使えるということは大切なことだと思います。

それはいうなれば、動の中にもいつも静があるような生き方というのかもしれません。動き回りながらもいつも心の中に静かに、ぶれずに、落ち着いている部分を持っているような感じかもしれません。

方便通して待機説法をするということは、そのような感じに近いような気がします。

そんなことを思いながら、先日御本山において、ご遠忌法要に引き続き、震災の追悼法要に参加させていただき思うことがありました。

自分は追悼法要に対して、現地にいる人たちからしたら、法要なんかされたって、生活楽にならないし、それよりもいまは物理的な支援だと、そんなピントのずれたことをされても困ると思う人もたくさんいるのではないかと思い自分の中でジレンマのようなものを感じました。

しかし法要が始まり、たくさんの人たちが一同に本堂で手を合わせる姿をみていて感じたのは、もしかしたら、被災された人の中には、法要なんて一文にもならないと感じる人がいるかもしれない、でもそこで慌ててなにかばたばたするのではなく、それでも祈り、手を合わせるということはとても大事な事かもしれないと思いました。

一文にならずとも、時に本堂に何百人も集まって手を合わせる。

きっとそれは無条件にあるもので、それは今だからというものではなくて、いままでも、これからもあるべき姿なのだと思いました。

それが宗教の本分であり芯なのだと思います。

祈るだけかよ、何かを願うことしかできないのかよと思う人がいるかもしれないけれど、何を言われても、いつも変わらずに手を合わせられるような自分でありたいと思いました。

動の中にもいつも静を。

その静とはつまりは本願であり、仏法なのだろうと思います。

つまるところ、宗教の本分というのは、そのようなぶれない芯を持っていることであり、その芯が何であるのかを見極めることではないかと思います。

きっと震災がなければ、自分は宗教の本分なんて考えなかったかもしれません。

この震災の中にも、阿弥陀の回向はあるとおっしゃった方がいました。その言葉が自分の中ではとても深く響いた気がします。一見誤解されそうな言葉ですが、本当にその通りだと思います。

月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ。

親鸞聖人750回、法然上人800回の御遠忌、この節目に重なるようにこのような震災が起こり、この1年というのは自分の人生にとってきっと大切な年になるのだろうと思います。

日々を大切に、味わうように過ごしていけたらと思います。

副住職


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