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ランドセルの件(追記)
| コメント(2) | 11年01月17日
誰かになにかをしてあげたいと思う気持ちは意識的に起きるものでなくて、自然とわいてくるものであって、なにかを守りたいとか力になりたいというのは、そこに本当は理由なんかないんだと思います。
そういう気持ちがわいてくるということが人間のすばらしい部分で、そこだけは間違いなくて、それを否定したら人として大事なモノを見失ってしまうのではないかと思います。
ただそこでなにができるか考えたときに、人は、自分の経験と想像と視野のなかからその答えを導きだして自分の中でベストだと思う答えを出します、いうなればそこで初めて人は意識的になるのだと思います。
その答えの1つがランドセルであったわけです。
でも人間は意識的になった瞬間に、自分を通して発された瞬間に、 発する人の数だけ答えがあって、経験の数だけ真実があるわけだから、それは善悪をこえて、価値観をこえて、本当の意味での正解ではなくなるのだろうと思います。
誰かの為になりたい気持ちはすばらしい、というよりもそれは根源的なモノだから否定しようがないけれど、そこで誰かの為になりたいと思ってした行動が必ずしも相手の為にならないという可能性を秘めているんだということを忘れてはいけないと言うことが大事で、
つまりは名乗ろうと、名乗るまいと、ランドセルを送ろうと、お金を送ろうと、そういう行動に人を動かした動機は間違いなくすばらしいものだけど、今回の件を見ていて、ただその動機がすばらしいことと、その動機からでた行動がすばらしいかということは別物で、そこを切り離さないといけないような気がしました。
そこさえしっかりわかっていたら、人は生きていく上で絶対に所作にも言動にも行動にもでるんだろうと思うし、なにをすればいいかではなくて、それを忘れさえしなければ、なにをしてもぶれることなく、どんな窮地に立たされてもしっかりと筋を外さずに現実を歩いて行けるのかもしれません。
今回の件で、いろんな分野の人と話をしたり、ツイートをみていて、発する人の数だけ答えがあって、経験の数だけ真実があるわけだから、いろんな意見がでるのは当然で、そもそもそんなものは収集なんかつかないし、収集がつかないまま、平行線のままで当然なんだと思います。
ただブームが去ればだれもそれ以上この議論をしないで、一過性に過ぎて、そんなこともあったねといって、また数年して同じようなことがおこれば、同じように自分の意見を主張しあうだけではもったいないなと感じます。
大事なのはそれぞれが感じたことを自分の中に落として、生活の中に、また生き方の中に反映していくことだと思いました。
それとネット社会になって、この膨大な情報の中にあぶり出しみたいに、人間っていうものが浮き彫りにされてる気がしました。
副住職
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伊達直人のランドセル。
| コメント(2) | 11年01月12日
今全国で、伊達直人という名前で、孤児院や施設にランドセルや寄付が届けられているそうです。日に日にその数は増え、マスコミでは現代の美談として連日テレビでも取り上げられているようです。
その件について、友人が何か違和感があるよねと話しているのを聞いて、その件について自分なりにも考えてみました。
なにかすぐに自分の手の中にあるものと結びつけるのは悪い癖だと思うのですが、これこそまさに親鸞聖人の述べられた「悪人正機」のいい例ではないかと思います。親鸞聖人は、「善人なをもて往生をとぐいわんや悪人をや」と述べられました。自分なりに要約するなら、善人だと言われている人が救われるのだとしたら、当然悪人が救われるはずだということだt思います。
一見おかしなロジックに見えますが、今回の伊達直人の件にぴったり当てはまるような気がします。
伊達直人の名前で寄付をしていることが美談として取り上げられて、それをしている人が善人だとしたら、なにか違和感を感じるな、だって相手にだって都合もあるのだろうし、一方的にそれを押しつけるのもどうかと思うし、他にもたくさんの寄付者がいるのに無名の人たちだけにスポットがあたって、こういうときだけ美談として取り上げるのはおかしい。自分って冷たいしひねくれてるのかな・・・と感じる人がいたとしてその人は善人ではないのかといえばそうではないはずです。
伊達直人が善人であるとして、それに違和感を感じる人が悪人であるしたら、1つの美談になんの違和感もなく、善人だと思い込めることよりも、1つの問題を自分の中に落とし込んで、足下を確認しながら、ひねくれているんじゃないか、冷たいのじゃないかと自分を内省しながら生きている人が救われないはずはないと親鸞聖人は述べているのではないかと思います。
でもここで、じゃあ自分は自分を省みてるから救われているんだ、と開き直ればいつだって自分も伊達直人になってしまうわけで、それを「本願ぼこり」といって、元も子もないぞということになります。
浄土真宗の中で善行とはなにを指すのかという定義は難しい問題です。もちろん今回の件で、無名で寄付をするという行為はとても心温まる話ですばらしいと思います。
だだ人間というのは気を抜けば、簡単にその大義名分の上に胡座をかいて、簡単に本分を忘れてしまう生き物であることを頭の片隅においておきなさいよと言うことだと思います。そしてそれは他人事ではなくいつだって自分の中にあるということを肝に銘じておこうと思いました。
いい行いをすることは大事だけど、いい行いとは何であるのかというところに言及をすること、そこに自分なりの想いを巡らせて生きる姿勢というのが仏教的な生き方なのかもしれないと思いました。
副住職
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あけましておめでとうございます。
| コメント(2) | 11年01月08日
新年明けてだいぶ立ってしまいましたが、今年初の更新です。今年も新年からたくさんの方にお参りいただき、お墓にはたくさんのお花が上がっていました。巷では宗教離れなんて言うけど、そういう光景をみると安心するような気がします。
また新年からたくさんの方とお話をさせていただき、改めてコミュニケーションをとるということは大切なことだなと感じました。お寺にいると、年齢や世代を超えていろんな方と話ができるということが本当にありがたいとこだと思います。
今年もまたたくさんの方とお話しできればと思います。
お寺にお越しの際にはお気軽にお声かけください。
副住職




