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お念仏と浄土

| コメント(4) | 10年01月22日

五木寛之さんの「親鸞」という本の中に、

「そのこころは心ではなく情なのだ。浄土は情土なのだ、唯識で心はとけるが、情はときあかすことはできぬ」

という言葉がありました。

それを読んで感じたことですが、まず、浄土というところが、どういう世界なのかということは、阿弥陀経の中に、事細かに記されています。

抜粋ですが、例えば、

極楽国土には、七重の欄楯(欄干のような石垣)、七重の羅網(とりあみ)、七重の行樹(並木)があって、みな、これ四宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶)であまねく取り囲むとか。

極楽国土には、七宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶・赤真珠・碼碯・琥珀)の池がある。八功徳(澄浄・清冷・甘美・軽軟・潤沢・安和・飢渇を除く・健康増進)の水が、その中に充満している。池の底には純ら黄金の砂が布かれているとか。

天の音楽をかなで、黄金が地をなしている。昼夜六時(一日を昼夜に二分、それぞれをまた三分して、六時となる)に、曼陀羅華を雨降らす。その国の民衆は、常に清々しい朝に、おのおの花を盛る器をつかって、もろもろの妙華を盛り、他方の十万億の仏を供養し、昼の休息をもって、本国に還到し、ご飯をたべ、座禅の眠気を覚ますためゆきつもどりつする。

など一部抜粋ですが、具体的に極楽の様子が説かれているわけです。

いままで、自分の中では、極楽というところは、いいところなんだろうなぁ。だからお念仏を唱えることで、極楽にいくことができる。と考えていたことがあります。どうせ死んだあとにいくところがあるならいいところの方がいいなぁと。じゃあ、なまんだぶなまんだぶ。と。

でも思うに、それじゃお念仏は、極楽に行くための一種の方法にしかすぎないわけで、経典を読んで、頭で浄土を思い描いている限り、お念仏は方法論に陥りやすくて、それじゃ、本末転倒になってしまうのかもしれないと感じることがあります。

正直言えば、もしお念仏が方法論だとしたら、いまの現代において、お念仏したら極楽にいけますよ!といって極楽にいくことを心から望んでお念仏を唱えられる人はどれだけいるでしょうか、自分もそうですが、極楽なんて本当にあるんだろうか、そもそもお念仏したらそこにいける根拠なんてあるんだろうか、とか、阿弥陀仏とかってそもそもなんなんだ。と考えてしまうのが普通じゃないかと思います。

しかし真宗において大切な心は、その疑いの中にあるのかもしれないと思うわけです、その疑いというのは、頭のどこかでは、そういうものがあればいい。とか、すべてをすくってくれる存在がいてくれればありがたいけど・・・もしかしたらそうだったら・・・と気持ちも含まれているように感じるわけです。

法要や、通夜葬儀で、遺族の方とお話をする時に感じるのは、極楽の様子や、極楽がどこにあるかとか、そんなことや、もっといえば、自分が念仏をすればそこにいけるかどうか、ということはさておき、今、亡くなられた方が、極楽というところに行って仏様になっていると思えることに、安心することができるのかもしれないと思うわけです。

また、自分がどうしょうもなく苦しい時に、神頼みなんて言葉もありますが、そこに阿弥陀さんがいるからとか、もっといえば救ってくれる人がいるから、助けてくれ。というお願をするのではなく、そういう相手を通り越して、救ってくれるとか、救ってくれないとか、阿弥陀さんがいるとかいないとかに、関わらず、だれでもいいからなんとかしてほしいとか、思うことがあるわけです。

そう思った時に、冒頭の浄土は情土とはうまいことをいうなぁとおもったわけです。

大切な人がいいところへ行っていてほしい。とか、自分が苦しい時に、だれでもいいから何とかしてくれ!とか。そういう人間の根本的な心の中に、浄土というものの本当の姿があり、それを恋う気持ちをお念仏という形であらわすのかもしれないと思うわけです。

大事なのは浄土そのものなのではなくて、人が浄土を恋う気持ちによりそうことであって、救いを恋う気持ちによりそえなければ理屈ではない浄土というのはわからないのかもしれないと思うわけです。

また浄土を恋うときにそこにある。人間の本当の部分、なんで人間は極楽浄土を恋焦がれるのか、そしてそこには、浄土を恋わなければならない自分がいるという事実があるということに気づかされることが大切なのではないかと思います。

それを簡単に噛み砕いてみると、やはり真宗は山からおりた宗派なんだなぁとしみじみ感じるとともに、非僧非俗というのは、やはり簡単なようで難しいなと感じます。つい理屈や頭で、経典を理解してしようとしてしまいますが、それではわからないことがまだまだたくさんあるように感じます。

そして最後は目の前にいる人と、一緒に笑って一緒に泣きながら、その心にまっすぐによりそって生きていくことが大切なのではないかと感じるわけです。

副住職

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新年あけましておめでとうございます。

| コメント(2) | 10年01月04日

 


新年あけましておめでとうございます。
昨年もこのブログを読んでいただいてありがとうございます。

何人かの方に声をかけていただき、また直接お話しする機会がとれて嬉しく思っています。

今年も肩の力を抜いて、感じたことを感じたままにゆるりと更新していきたいと思っています。
またこれをきっかけに、たくさんの方とお話しができたらと思っています。

よろしくお願いいたします。

さて、先日新年早々に、上野動物園にいってきました。
まだ3日だというのに、たくさんの人たちがきていて、賑わっていました。

そこで感じたんですが、よく白い鳩が平和の象徴だといいますが、なんとなく自分にとっては、鳩よりも、象を見ると平和だなぁと感じることがあります。

象の檻の前でたくさんの子どもがへばりついて、親子で象を見ている光景をみてると、日本は平和だなぁと感じるわけです。

昔国語の教科書にあったトンキーの話しがの影響を少なからず受けているのかもしれないですね。

そして、やっぱり平和が一番だねと口に出して思ったのは、やっぱり平和が一番と、10年前にいった自分と、やっぱ平和が一番だという今の自分は同じ言葉を発していても全然違っていて。

この10年の中で、いろんな想いや経験をして、平和の意味も、多面性も、10年前よりはすこしくらい見えるようになってきて、平和というものにのせている意味も想いもぜんぜん別物だと思います。

でも言葉にすると10年前となんらかわらない。平和が一番だね。になるわけで。

いろんなものが一周して同じところにもどってくる感覚というのはこういうことなのかもしれないなぁと思ったわけです。

そんなことを考えていたら、ふと岡本太郎さんが、晩年、やっと子どものころに描いた絵に近づいてきたなぁといっていたということを思い出しました。

そしてそんなことを考えながら、ツキノワ熊のところにくると、なぜかここでいつも、動物園の動物は幸せかなのか幸せじゃないのか?という疑問が思い浮かぶわけです。

そしてそれをいつもペンギンのあたりまでそれをいつも考えて歩くんですが。いつも違う答えが浮かんでは消え、何度この疑問を考えたのかわかりませんが、言葉にするのは難しいのですが、

今回思ったのは、檻の中にいる動物は、きっと幸せだとか、不幸せだとかないんだろうと思いました。

いうなれば幸せだし、いうなれば不幸せなのかもしれません。

草原を走り回ってるほうが幸せだよと思うのはあくまで、自分の想いにすぎなくて。幸せっていう基準が考える人間の数だけ存在する以上、その質問に明確な答えはないのかもしれません。

そして、そういうことをうっかりにでも、考えて、Aが幸せなんだろうか、それともBの方が幸せなんだろうか、と考えてしまう行為自体が人間が苦しみにいかにとらわれているかというなによりの証拠なのかもしれないなぁと・・・Aを離れBを離れることが中道か・・・と。うまく伝えられませんが、

そんなことを白クマの顔をみながら思ったわけです。

それと、余談ですが、いま上野動物園にはパンダがいないんですが、年内にはパンダがもどってくるかもしれないそうです!パンダのいない上野動物園はなんか、みかんののっていない鏡餅のような気がしてしまって、上野動物園にはパンダが戻ってきて、やっとなんかしっくりくる感じがします。

さてそんなこんなで2010年が始まります。

今年も皆様にとっていい歳でありますように。

合掌

 

副住職

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