寂円寺徒然日記
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ダライラマと対談をしたことのある方と話をする機会があり、その中で印象的だったエピソードとして、その方が教えてくれた話があります。

ダライラマに、その人がこう質問したそうです。

いままでたくさんの決断をされてきて、なかには苦渋の決断もたくさんあったでしょう。そのなかで猊下は、物事を決断する時に一番大切にされているとこはなんですか?なにか啓示みたいなひらめきみたいなものがあったりするんですか?

と聞いたそうです。

そしたらダライラマは、一言

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といったそうです。

この話を少し前に聞いた時には、なるほどな、としか思わなかったんだけど。昨日そのこと思い返してふと思ったのですが、

まさにそれはbuddism is being not only doing を実践しているということなのかもしれない。

自分の中に仏教が根付いていれば、自分の考えること、脳みそのはじき出したことで物事を決めればいいということなんじゃないかと思う。解釈に危険性はあるけど、でもいま、なんかその意味が少しわかる気がします。

仏教を心に落としておけば、それは何をしても仏教になるけど、心に落ちていなければそれはなにをしても仏教にはならないということなのかもしれません。

自灯明・法灯明ということの意味もそこにつながってくるんだろうと思います。

どんなりっぱなことをしていても、どんなに知識や教学に詳しくても、大事なのは自分の心がどうあるかということで、いまの自分の状況をしっかりと穏やかにに保っておけるかどうかが大事で、その状態を保っておけるのであれば、あなたはなにをしていても仏教徒だよということなのかもしれません。

いつも24時間じゃなくてもそれを保つためのなにかに、お念仏でも、座禅でもなんでもいいけれど、仏教をちゃんと自分の中に落としておくことが大事だという意味なのかもしれません。

少しづつだけど、時間をかけていろんなものがじわじわと結びついてきたような気がします。

進むべき道というのは、迷ってるうちはどこに進んでも同じなのかもしれない、正解の道なんてのは本当はなくて、逆を返せばどの道も正解になりのかもしれないですね。

 

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