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タイから帰国しました。

| コメント(3) | 09年11月19日
 
11月9日から16日までタイのチェンマイに行ってきました。

今回、タイのチェンマイにある、マハチュラコン大学の建てた、MeditationCenterに籠ってきました。世界各国タイ、ミャンマー、ネパール、スリランカ、インド、チベット、ブータン、ラダック、韓国、中国をはじめ、たくさんの上座部のお坊さんや、各国の在家信徒の人たちと生活を7日間生活を共にしてきました。

毎日瞑想三昧で合計何時間瞑想したんだろうかというくらい瞑想しました。ここで感じたことは言葉にすると伝わりにくいので、熱をもって話したいので、興味のあるかたは、直接お話しできたらとおもいます!(ここの話だけでそうとうおもしろいです。自分でいうのもなんですが)

本当にこの7日間、自分の意識の置き方、日本の抱える問題や各国の抱える問題とそれに向き合う気持ちとか、ほんとうにいちいち金槌で頭をぶんなぐられるような感じでした。

ミャンマーの現状や、インドのカーストの話や、津波の後のいまのスリランカの現状とそこで活動する人たちの想いとか、タイ仏教の現状やチベット問題についてとか。日本の抱える自殺の問題とか、ほかにもかききれないくらい。たくさんの話をリアルにきいて、自分の中では改めて、テレビのニュースがただのニュースじゃなくなった気がします。

そして今回一番強く感じたことは、やっぱり仏教は実践なんだということです。

実践というと、社会的な活動とか、修業とか、どうしても物理的なものばかりが取り上げられがちだけど、そうじゃなくて。心の中に仏教があるかどうかという意味で。

進むべき道に悩んでいた自分にインドネシア人が、ノートにこんな言葉を書いてくれました。

buddism is being not only doing

自分なりの意訳ですが、いまここ。いまここにいる自分と心が大切だと理解しました。

世界の抱える問題の前線で、活動を続けるたくさんのお坊さんたちや信徒の人たち、自分のつたない英語をちゃんと最後まできいてくれて、真剣に目を見て話をしてくれて、誰ひとりとして、日本からきた若造の話を聞き流してる人がいなくて、(むしろ聞き流してほしい時もあったのに)そんな姿勢1つ1つに、仏教のすごさというか、実践することの大切さとか、そんなものをまざまざと見せられた気がしました。

実践とはあくまで自分の中にどう落としているかどうかということなんだろうと思います、それさえできていれば、どんな行動でもそれはEngaged Buddhismになるんだろうと思います。

熱は高いところから低いところへ流れる。

今回、自分が誰かに熱をわけてあげられたかはわかりませんが、いま自分の心の中はものすごくあったかいし、たくさんの熱量と気持ちと、経験と意識もって帰ってこれたと思います。

きっとこれから先の自分の人生の中で、確実に自分の核をつくる要素になるであろう大事な想い。自分の進もうとしていた道や目指していた仏教の道の先に曇っていた霧がすこしはれた気がしました。さぁと背中を押された気すらします。

そして、たくさんの宗教や人種、それぞれを取り巻く環境や立場があるけれど、やっぱりみんな一緒で、なに人でも、笑ってて泣いてて怒ってて。、同じ感情を持ってるわけで。

だから答えだって1つなんだと思います。

これから時間をみつけて、この旅の間に描きためたメモを反芻しながら、大切なことからどうでもいいことまで、少しづつ切り取って書いていこうと思います。

 

また興味のあるかた、ぜひお話がしたいので、次回お会いした時にでもお気軽に声をかけてください。


副住職

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モスバーガー

| コメント(1) | 09年11月04日

 

この間、世間のお坊さんに対するイメージとはなにか?かっこいいお坊さんとはなにか?ということを若い僧侶があつまって話をする機会がありました、そんな中で、自分は、やっぱり格好だけじゃなくて、中身だと思うし、お寺や跡取りだとかお寺に生まれたとか、そういう背景の前でしか胸を張ってお坊さんだと言えないのは違うと思う。と主張しました。

 

そんなことがあって数日して、ちょうどお昼時に外にお参りに行った帰りに、お昼を買って帰って家で食べようと思い車を走らせていました。そこでちょうどモスバーガーがあったので、そこで車をとめて買って帰ることにしました。

 

衣であんまり外で買い物をするということはないし、少しどうしようか悩んだのですが、別にいいだろう悪いことしてるわけじゃないし、と思い休日のお昼時のごった返すモスバーガーに入り、長い列の後ろに並んでいました。

 

その列には、家族連れ、学生さんやサラリーマン風の人、そしてお爺さん、そこに間衣輪袈裟の自分。はじめはよかったのですが、だんだんと周りの目が気になるようになりました。向こうの席では子どもが、お母さんみてみて、と明らかにコチラを指さしていますし、そうなると、みんなの心の声まで聞こえてくるようでした、お坊さんがハンバーガー食べるんだ・・・場違いじゃないか・・・というような・・・なんともいたたまれなくなり、番号札を持ってまった10分はもう1時間もまったかのような長い時間に感じました。そしてそそくさとお店を後にしました。

 

その時にふと思いました。

 

非僧非俗だなんて、わかったような口をきいていても、やっぱり自分もイメージを気にしていて、僧侶というイメージを守りたかったんだろうなと。

 

そう思ったと同時に、比叡山というお寺を下り、俗にくだり、お坊さんとか、お寺とか背景を捨てた親鸞さんのことが思い浮かびました。自分は、坊さんがなにしにきたんだという、顔をすこしされただけで、いたたまれなくなって逃げ出したくなったのに、親鸞さんがやったことは、衣でモスバーガーにはいって、そこで法話を説いて、真宗を広め、そこにいる人を真宗に教化したようなものなんじゃないかと思いました。

 

本当に自分はまだまだ器が小さいと思うと同時に、親鸞さんのやったことや、残したものの大きさと重さを思うとあたまがくらくらするような思いがしました。

 

例えが極端かもしれませんが、俗をすて出家したのがお坊さんで、それは俗とはきりはなされていますが、真宗のお坊さんは、非僧非俗ですので、僧でもなく、俗でもなくその間にいるというのは、衣をきているけど、ハンバーガーはたべますよ。そこの立ち位置で、ちゃんとまっすぐにお念仏をして生きていきなさいというようなものかもしれません。そこで後ろめたさを感じる自分はまだ、凡夫である自覚もできていないのに、非僧非俗だなんていう、口だけ真宗になってしまっていたなぁと思うと同時に、これをちゃんと自分の生活に落としていくというのは、並大抵のことではないことで、真宗というものの奥深さを痛感した気がしました。

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