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ほとけさまのものさし。

| コメント(3) | 09年10月25日

 

ほとけさまのものさし

最近ではテレビのニュースをみていましても、重箱の隅をつつくような政治や自分勝手に命を扱うような犯罪があふれ、国際状況もそれぞれの国が権利ばかりを主張するようなニュースがあふれています。

そんなニュースを見ていてふとうちのトイレにはあいだみつをさんのカレンダーのようなものがかかっているのですがその言葉の中に『損か徳か人間のものさし うそかまことか仏様のものさし』と書いてあったのを思い出します。

いつもなにげなくみていたのですが、ふとそれについて考えてみました。たしかに自分が何かを判断するときに気づくとこうしておけばきっといいだろうとか。こうしておけばきっとこう思われるんじゃないか。きっとあの人いい人だとか、あいつはうさんくさいから関わるのをやめようとか。あの人は気が利くとか気が利かないとか。など言い出したらきりがないですが自分の主観でものごとを判断します。知らず知らずのうちに物事にレッテルをはったり、自分の範疇でそのものに優劣や価値をつけようとします。

しかしそのすべての判断は自分のものさしでしかなく、それが本当の姿ではないわけです。
そのものさしはきっと時と場合によっても変わってしまうし、ころっと手のひらを返したように長さがかわったりします。

しかし仏様の真実のものさしというのは普遍であるというわけです。

例えば。

人間のものさしではものの価値というのはころころ変わります。

お腹がすいていればなによりも食べ物がほしい。お腹が一杯になれば次はお金が欲しい。
なにかがうまくいっているときは自分は価値のある人間だと思ったり。そうでなくなると自分には価値がなくなってしまったと嘆いたりします。病気になってはじめて健康の価値に気づきます。優しい人はいいひとだといったり無愛想な人は倦厭します。

人間は多くの執着によって苦しみます。しかし元をただせばその執着を生むのはこの物事にレッテルをはってしまう人間のものさしが生み出しているわけです。

目に見えるものしか信じないで、目の前の価値のあるものだけを信じる。そうすると例えばあの人はいい人だと思った人に裏切られる、よかれと思ったことがあだになる。そういうことは人生の中でいくらでも起こりえるわけです。そして最後は自分の判断そのものすら信じられなくなりかねないわけです。それも元をただせばやはりどこかで自分のものさしで判断した結果ではないかとおもうわけけです。

それに対して仏様の物差しの前ではものごとの価値はかわりません。

お腹がすいていてもお腹が一杯でも、仕事がうまくいっていてもいっていなくても、病気でも健康でもましてや若くても年老いていても。ましてそれが善人でも極悪人でもペテン師でも。

すべてのものの価値は変わらないということです。

法華経というお経のなかにこれを諸法実相と言う言葉で表現されていますが。直訳しますとすべてのものがもうそのままで真実である。ということになります。こう書きますと難しく聞こえますが

よく禅問答で使われるたとえ話にこんな話があります。

目の前で自分の妻と母親がおぼれている。さてどちらから助けますか。さてほとんどの人はここで迷うか、飛び込むのを躊躇すると思います。自分もそうです。ここでためらうということがまさに。人間のものさしということです。仏様の前では二人ともただの人です。

仏様の前では手の届くところにいる人から助けるというのが正解です。二人にはってある妻、母親というレッテルはそこにはないわけであります。

ここまで話しますとそりゃそうだしわかっているけどそんなトンチみたいな話は納得できないし、そんなことはできるはずないと思う方がほとんどではないかと思います。

それが自然な心だと思います。

思うにその心こそ他力本願の入り口ではないかと思うわけです。

まずはそれができない自分を自覚し、自力ではどうにもならないことがあると気づかせていただく。

人間がそういう判断ができないのは何千年も前から変わらないわけで、多くの人がそれができないがゆえに覚りに至ることができないわけであります。

だからこそそういう人間こそ救われなければならない。そういう人間こそが救われる方法があるはずだとお考えになられたのがいま本堂の正面にいる阿弥陀仏という方になるわけです。法事の時にいつもよむたんぶつげというお経はその決意を述べられたわけであります。

そこで阿弥陀仏はあなた達が悩む悩みはもう私がすべて悩み抜いた。行ずべきことは私がすべて行じた。だから私の名前を呼びなさいと述べられたわけです。南無阿弥陀仏。と言う声はそういう自分をすべてをお任せいたしますよ。という声になるわけであります。

「阿弥陀さまの本願を信じ念仏申せば仏となる」と親鸞聖人は述べられました。

本願を信ずるにはまずは自覚をしなければならないわけで、その自覚こそが弥陀の本願の入り口であるわけです。

そして自分がにんげんの物差しから仏様のものさしになるということはとうてい難しいということを心から自覚できたときにはじめて信心が生まれるのではないかと思うわけです。そしてそのときにはじめてお念仏というものが自然に口からでるようになるのではないかと思うわけです。

よく現在は末法の世といわれます。末法というのはお釈迦の立教以来1,000年の時代を正法(しょうぼう)、次の1,000年を像法(ぞうぼう)、その後10,000年を末法の三時観で分けて考え、お釈迦の教えが及ばなくなった末法においては、仏法が正しく行なわれなくなるという考え方です。世も末だといいますが。

現代に生きて、社会生活をすると一歩外に出れば人間のものさしがあふれています。その中で生きていくしかないわけであります。新聞をみても、テレビをみても。職場にいてもそれこそ家にいてもそうかもしれません。

点数や、成績、お金物事に価値をつけることで成り立っている社会です。判断を狂わせるようなことがたくさんあふれています。山に篭もって生活するならいいかもしれませんが現代人はそうではありません。

その中で生きていくことはものすごく大変なことだと思います。しかし物事の本当の価値が見えにくくなってる現在だからこそ改めてそのことに気づかせて頂く必要があるわけです。

昔曽我量深先生という方が寂円寺に寝泊まりをしていたときに、祖母が朝新聞を届けたそうです。そのときに曽我先生は娑婆の話は十分ですわ。とおっしゃられたそうです。その話を聞いたときは雲の上で生活しているような人だなぁと思いましたが、その言葉の意味がなんとなくわかったような気がしました。

真宗は聞法第一という言葉があります、聞法とは「法に聞く」という意味で、法(教え)に私の姿を聞き、知ることです。鏡がなければ自分の顔を見ることができないように、法(お経)は、鏡に喩えられ、私たちのあり様をうつし出すものです。

このように聞法をして改めて自分の姿を気づかせていただけたことに感謝し、またお寺というところが末法の世においても大切な聞法の場であり続けたいと思います

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我慢

| コメント(1) | 09年10月07日

 

先日お彼岸の法話の後に、「我慢」というのは仏教ではどうとらえるのか、ということで、お声をかけていただきまして、自分なりに我慢ということを考えてみました。

仏教には「忍辱」という言葉があります、これは行の1つで、あらゆることに耐え忍び、平常心を保ち、寛容に生きていくということを指すわけですが、こう書きますと、嫌なことや、つらいことを我慢して、耐え忍ぶこと、ぐっとこらえることだと受け止めがちになってしまいますが、仏教でいう、忍辱とは我慢のことを指すわけではないようです。

我慢というのは、人間ながくは続かないものです、お腹の中にぐっと溜まった我慢は、いつか爆発するか、しなければ体や心のバランスを崩す原因にもなるかもしれません。

実際自分自身、長い間我慢をしていると、ストレスも溜まりますし、小さなことでイライラしてしまったり、許容範囲が狭くなってるなぁと感じます。

仏教では、我慢を以下の七慢の1つとして分類しています。説明文を他のサイトから引用させていただきます。

1「慢」他と比較しておごり高ぶることを意味します。
2「過慢」自分と同等の人に対して自分の方が上だと思う。
3「慢過慢」自分より優れた人に対して、自分の方が力量があると思い誤ること。
4「増上慢」自分が一番正しくて、他人はみんなろくでなしと思ってしまうこと。
5「我慢」自分に執着することから起こる慢心のこと。
6「卑慢」実は自分はすごいんだ、という傲慢さがにじみ出ている人。
7「邪慢」徳もないのに、「自分は徳のある人間だとしたり顔をしている人。

このように我慢とは、仏教では、慢心であるというとらえ方をします。日本人の美徳として、耐え忍ぶということは素晴らしいことですが、それが行き過ぎてしまうと、つい、我慢してるのに!こんなに我慢したのに!我慢させやがって!などと心の中に、怒りや苦しみや、ねたみや、そういうものを生み出す原因にもなってしまうわけです。

また、不満な状況や環境に遭遇した時に、なんで自分だけがこんな目に・・・とか、お金があれば回避できるのに・・・とか、あれが手に入ればなんとかなるのに・・・など、いかにその状況を回避しようか考え、そこにとらわれてしまうことで、現状をしっかりと受け止め見つめるということができなくなってしまいます。

こちらも引用ですが、良寛和尚の有名な言葉に、「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬる時節には、死ぬるがよく候。」とあります。「災難や死には普段からそれぞれ備えをなすべきで、その場に臨んだら避けられないのだから、災難や死に徹して生きよ」(松原泰道「心の杖ことば366日」海竜社)ということです。

つまりは、仏教でいう「忍辱」というのは、我慢して耐え忍ぶことではなく、いかに目の前の現実を受け止め、とらわれずに生きていくかという意味があるのかもしれません。現実に目を向けて、それを自分の中で受け止め、その現実に、つきあっていこうと思える腹の据わった姿勢と、心持ちが忍辱ということなのかもしれません。

そうはいっても、人間、つねにいろんなことを我慢をして、ストレスをため込んでいきているものです、いきなり頭を切り替えてそうしましょうといってもなかなかできるものではありませんが、仏法に触れ、頭の片隅にでも、仏法のいう忍辱という言葉をとめておくだけでも、少しづつ心や行動に影響してくるのかもしれないと思います。

今回法話の後にお声をかけていただき、このように自分自身、考える機会をいただきありがたく思います。いつでも気軽にお声をかけていただき、聞法の機会をいただけたらと思います。ありがとうございました。

副住職

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