寂円寺徒然日記
祈ること

 

先日、ある方と「祈る」ということについて話をしました。そこで感じたことです。

自分は祈るだけで世界が変わるならもう世界は変わってるはずだ。なんて言ってしまったことがあります。しかしそれからよくよく考えてみたら、祈ること自体ではたしかに何もかわんないかもしれません。超能力とかがあるなら別ですが。

でも何かを祈ろうと思う気持ちを持つことで、手の届くところにいる人や、自分の周りだけにだけでもすこしいろんなことに寛容になれたり、優しくなれたりするかもしれません。

ようは祈るという行為に意味があるのではなく、祈ろうと思う自分に意味があるということなのかもしれません。だから祈りというのは、その行為を通して、ベクトルを内側に向けるためのものとも受け取れるわけです。いままで自分は祈るということの矢印は外側に向かっているとだけ思い込んでいたわけです。

見方を変えると、受け止め方が劇的に変わるということもあるみたいです。

そういうことに気づかされて目からうろこが落ちて、いままでの自分の視野の狭さと、みえていなかった世界と感覚があったことにうれしくもなりました。

事実だけを、目見えるものだけを捉えるんじゃない。そこを通して自分が何を得られるかということは無限の可能性で、むしろこれは飛躍しすぎかもしれないけど、受け止め方次第では一つの事実にすべてがあるというところまで行きつけることもあるのかもしれないと思いました。

仏像だってただの木だといってしまえば、それまでですが、大切なのはそれを通してなにを観るか。ということなんだと改めて再認識させられました。

 

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