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カテゴリー
本末転倒
| コメント(2) | 09年08月31日
先日あるお寺で、仏像をめぐるトラブルがあり、そこのお寺でお話を聞いてきました。詳しい内容は長くなるので割愛しますが、その話の中で感じたのは、
そもそも、お寺という場所は、信仰というものに支えられている場所です。更にいえば、お寺があり、仏像があるところに、信仰があるのではなく、信仰のあるところに、お寺があり、仏像があるわけです。
同じようですがこの順序というのはとても大切なとことような気がします。そこを間違うと本末転倒になってしまうような気がします。
何事も「そもそも」と原点を省みるというこは大切ではないかと思います。
世間では、今、選挙一色ですが、そもそも、政治は誰のためにあって、政策というのはなんのためにあるんでしょうか。そして、豊かな生活、幸せな国というのはなんなんでしょうか。
そこを自分たち一人一人が真剣にしっかりと考えなければ、進むべき方向というのはこれからも定まっていかないのかもしれません。
まずは自分自身の中にしっかり矢印を向けてみることはここでも大切なことだと感じます。目を凝らしてみると、それを忘れた本末転倒という言葉が、そこらじゅうに転がっているような気がします。
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鉄博
| コメント(2) | 09年08月22日
さて先日鉄道博物館へ子どもを連れていってきました。
いってみると、さすがにすごい。ほんとに鉄道が好きな人がつくったんだろう。これはただの箱ものじゃない。日本の鉄道の歴史を知る上ですばらしい博物館だと思いました。
しかも設計にあたり、食事を食べるとことから、実際に走る貨物列車がみえたり、屋上からは同じ目線で、新幹線が走っているのがみえたり、しかも丁寧に時刻表まで大きく表示してあったり、鉄道好きじゃなくても楽しめる。あの気の配り方は、本当に鉄道が好きじゃなきゃできないと思います。
むかし秋葉原の交通博物館にあったD51も健在で、ちょっと懐かしくなりました。小さい時に自分が手をひかれて連れてこられた思い出も、こうやってちゃんと引き継がれていくんだなと思ったら、ちょっとうれしくなりました。
一言で箱ものというと、あんまりいいイメージではないけど。でもこうやってたくさんのものを引き継いでいってくれるなら、箱ものも大切だなと思いました。
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祈ること
| コメント(2) | 09年08月10日
先日、ある方と「祈る」ということについて話をしました。そこで感じたことです。
自分は祈るだけで世界が変わるならもう世界は変わってるはずだ。なんて言ってしまったことがあります。しかしそれからよくよく考えてみたら、祈ること自体ではたしかに何もかわんないかもしれません。超能力とかがあるなら別ですが。
でも何かを祈ろうと思う気持ちを持つことで、手の届くところにいる人や、自分の周りだけにだけでもすこしいろんなことに寛容になれたり、優しくなれたりするかもしれません。
ようは祈るという行為に意味があるのではなく、祈ろうと思う自分に意味があるということなのかもしれません。だから祈りというのは、その行為を通して、ベクトルを内側に向けるためのものとも受け取れるわけです。いままで自分は祈るということの矢印は外側に向かっているとだけ思い込んでいたわけです。
見方を変えると、受け止め方が劇的に変わるということもあるみたいです。
そういうことに気づかされて目からうろこが落ちて、いままでの自分の視野の狭さと、みえていなかった世界と感覚があったことにうれしくもなりました。
事実だけを、目見えるものだけを捉えるんじゃない。そこを通して自分が何を得られるかということは無限の可能性で、むしろこれは飛躍しすぎかもしれないけど、受け止め方次第では一つの事実にすべてがあるというところまで行きつけることもあるのかもしれないと思いました。
仏像だってただの木だといってしまえば、それまでですが、大切なのはそれを通してなにを観るか。ということなんだと改めて再認識させられました。




