寂円寺徒然日記
お寺

 

最近、お寺というのはどういうところなんだろうと考えることがあります。

そんなことを考えていて思ったのは、最後に人が還るところは、手を差し伸べてくれたり甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるところや、強い信念をもって突き進んでところや、誰かや何かのために心血を注ぐところでもないんじゃないかと思う。

なにもしてくれないところ。なにもしないけど突き放すわけじゃなく。いつまでもそこにいさせてくれるところ。ただそれだけなんじゃないかと思います。

最後の最後に安心できたり癒されたりするのは。

なにかをしてくれるよりも、なにもしないで横にいてくれるだけいいんだと思う。まるごとそれでいいよって言ってくれる所なんだと思う。

南無阿弥陀仏をとなえればなんか救われたり、楽になったり、ときには成仏できるとか思ってる人がいる。そんな便利な呪文みたいに感じてる人がいるかもしれないけど。誤解をおそれずにいうなら、阿弥陀さんはなんにもしてくれない。いくら念仏を唱えたところで目の前に現れてなにか苦しみを取り除いてくれる方法なんて教えてくれない。そもそもそんな非現実的なものじゃない。

ただ阿弥陀さんはそこにいるだけ。それが存在するかしないかの問題じゃなく。いつでもぶれずにいたいときにいたいだけ、いさせてくれる場所みたいなもんなんだと思う。

そんなの意味がないとおもうかもしれないけど。

南無阿弥陀佛っていうのは。

言い換えれば。

現実よど~んとこいと。だめなら泣きましょう。よければ笑いましょう。必要なときはここにいるよ。なんにもできないけど一緒にいますよ。いたいだけここにいたらいいよ。それだけしかできないけどね。

ってことなんじゃないかと思う。

さらにいえば。

お寺って場所はそういうところなのかもしれません。中道っていうのはどこにもよらないところ。真宗でいえば俗でも僧でもないところ。

どこにも片足つっこまずにのらりくらりとある場所。世間とは時間の流れがすこしずれてるところ。

正直いままではなんとなくそれが嫌で。なんかそんな時間の流れや自分のおかれた環境がぬるくて、なんか宙ぶらりんのような気がすることがありましたし、そうじゃないほうへばかり進んでたような気がするけど。

最近思うのは、お寺というのは、甲斐甲斐しくなにかしたり、誰かや何かや社会のためでもなく、ただ価値観を振り回さずにそこにいつづけるだけでよくて、さらにいえばそうやっていつづけなきゃいけないのかもしれません。

それでそこに足を運ぶ人に変わらずにいられたらそれだけでいいのかもしれない。

きっと今の時代に生きている人は、いろんな価値観に振り回されてて、こういう生き方は理想。こういう活動はすばらしい。根暗はだめだ。ひきこもっちゃだめだ。納豆は体にいい。ポテトは体に良くないよ!

耳をふさぎたくてもたくさんの情報にさらされて。さらされ続けて麻痺してるのかもしれないけど、絶対こころのどっかが疲れてる人がたくさんいると思う。

最後に還るところ。最後に人が安心するのは。

きっとなにかを変えられる力ではなくて、なににも変えられない力なのかもしれないと思いました。

 

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