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お寺
| コメント(2) | 09年07月29日
最近、お寺というのはどういうところなんだろうと考えることがあります。
そんなことを考えていて思ったのは、最後に人が還るところは、手を差し伸べてくれたり甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるところや、強い信念をもって突き進んでところや、誰かや何かのために心血を注ぐところでもないんじゃないかと思う。
なにもしてくれないところ。なにもしないけど突き放すわけじゃなく。いつまでもそこにいさせてくれるところ。ただそれだけなんじゃないかと思います。
最後の最後に安心できたり癒されたりするのは。
なにかをしてくれるよりも、なにもしないで横にいてくれるだけいいんだと思う。まるごとそれでいいよって言ってくれる所なんだと思う。
南無阿弥陀仏をとなえればなんか救われたり、楽になったり、ときには成仏できるとか思ってる人がいる。そんな便利な呪文みたいに感じてる人がいるかもしれないけど。誤解をおそれずにいうなら、阿弥陀さんはなんにもしてくれない。いくら念仏を唱えたところで目の前に現れてなにか苦しみを取り除いてくれる方法なんて教えてくれない。そもそもそんな非現実的なものじゃない。
ただ阿弥陀さんはそこにいるだけ。それが存在するかしないかの問題じゃなく。いつでもぶれずにいたいときにいたいだけ、いさせてくれる場所みたいなもんなんだと思う。
そんなの意味がないとおもうかもしれないけど。
南無阿弥陀佛っていうのは。
言い換えれば。
現実よど~んとこいと。だめなら泣きましょう。よければ笑いましょう。必要なときはここにいるよ。なんにもできないけど一緒にいますよ。いたいだけここにいたらいいよ。それだけしかできないけどね。
ってことなんじゃないかと思う。
さらにいえば。
お寺って場所はそういうところなのかもしれません。中道っていうのはどこにもよらないところ。真宗でいえば俗でも僧でもないところ。
どこにも片足つっこまずにのらりくらりとある場所。世間とは時間の流れがすこしずれてるところ。
正直いままではなんとなくそれが嫌で。なんかそんな時間の流れや自分のおかれた環境がぬるくて、なんか宙ぶらりんのような気がすることがありましたし、そうじゃないほうへばかり進んでたような気がするけど。
最近思うのは、お寺というのは、甲斐甲斐しくなにかしたり、誰かや何かや社会のためでもなく、ただ価値観を振り回さずにそこにいつづけるだけでよくて、さらにいえばそうやっていつづけなきゃいけないのかもしれません。
それでそこに足を運ぶ人に変わらずにいられたらそれだけでいいのかもしれない。
きっと今の時代に生きている人は、いろんな価値観に振り回されてて、こういう生き方は理想。こういう活動はすばらしい。根暗はだめだ。ひきこもっちゃだめだ。納豆は体にいい。ポテトは体に良くないよ!
耳をふさぎたくてもたくさんの情報にさらされて。さらされ続けて麻痺してるのかもしれないけど、絶対こころのどっかが疲れてる人がたくさんいると思う。
最後に還るところ。最後に人が安心するのは。
きっとなにかを変えられる力ではなくて、なににも変えられない力なのかもしれないと思いました。
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お盆
| コメント(0) | 09年07月15日
梅雨があけて、このじりじりとまとわりつくような暑さがやってくると夏気分が一気に盛り上がります。
今年のお盆は平日だということもあり、お墓参りの方も少ないかと思いきや、例年よりは少ないとはいえたくさんの方がお参りにいらしてくださいました。お墓にもたくさんの花が上がっています。そんな光景をみると、すこし嬉しくなります。
そして今夜は子どもを連れて毎年恒例の靖国神社のみたま祭りへいってきました。
参道はたくさんの提灯に彩られ、たくさんの人たちでに賑わっていました。盆踊りやお神輿などもでていてお祭り気分は最高潮です。
本当に毎年ここに来ると、日本は平和だなと思います。こんなにみんなが笑顔で笑い合える当り前のことが、本当はかけがえがない幸せなことなんだと思います。
何気ない毎日が、かけがえのない毎日という言葉がありますが、本当にそうだと思います。どうしたら世界が平和になるのか、自分にはわかりませんが、まずは自分が笑顔でいられることが何よりも大切なんじゃないかと思います。
やっぱり世界は平和な方がいいなと思いました。
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観る。
| コメント(2) | 09年07月02日
阿弥陀さんをみていて、阿弥陀さんはなんて眠たそうな顔してるんだろうなぁと思ったことがあります。
阿弥陀さんだけでなく、最近仏像を見に行くことが流行っているそうですが、仏像ってのはいろいろなものがありますが、たいていは目をカッと見開いてるものはないように思います。逆に目を完全に閉じているものもないように思います
うっすらと目を開け少し先を見据えているが焦点が合っていないような感じのものがほとんどではないかと思います。 はっきりなにかを見据えてる訳じゃないのに、それでもなにかみすかされたような気持ちになるような目です。
ある剣術の指南書のなかに極意として書かれいる一節の中に、 相手と対峙したときに相手を「見る」のではなくて「観る」ことそれこそが極意だという一文があるそうです。
太刀筋を見ようと刀ばかりを凝視していたら勝負には勝てない。観るとはなにか一点に意識を集中するのではなく、言うなれば広く浅く大きく神経を集中させることだということだそうです。
相手の全体を観ることで、足の動き、指の動き、一連の動作の流れを感じることができるという。そうして初めて太刀筋が観えるといいます。
これは一流のボクサーもなにかの本で同じ事をいっていました。パンチをよけようとして相手の手をみてるやつはいないと。
さらに最近では陸上の為末選手がハードルを跳ぶときにハードルを意識しないで周りの景色と一緒なんだって観られるようになったら記録が伸びたといいます。
何か一点を見つめているとそれははっきり見えるけど物事の全体像が見えていないことが多い。
たしかにそういわれるとそうかもしれません。
最近では目先の利益に走ったような事件が多いけど、もうすこし物事を大きく「観る」ってことが本質をとらえるコツなのかもしれないと感じました。




