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脳死問題について
| 09年06月22日
脳死と臓器移植の法案が衆議院で可決され、自分の周りでもたくさんのお坊さんが議論をしています。つい先日、あるお坊さんが、もっと医学者・哲学者・教育者・宗教者などを巻き込んで活発な議論をすべきだ!と言っているのを聞きました。
しかし脳死は人の死かどうか。医学者・哲学者・教育者・宗教者などを巻き込んで 活発な議論がなされたら答えの出ることなのでしょうか。
どうしても自分の中で人間というものの凡夫たる所以を深く省みるとどうしてもこの議論をして、法律を改正できたら、改正されると世界から苦しみが減るのかと思ってしまいます。この法律がしっかりした議論がされて制定された前と後で人間の苦悩の数は変わるのか。
そもそも人の命というもの、または死というものにラインを引く、言い換えればそれを理解しようとする、理解しようとするということは自分の価値観の中で判別するということです。それをできると思うことが人間の苦悩であり凡夫たるゆえんではないかと思います。
誰かにとってはその法律が制定されれば苦しみが減り、たくさんの命がすくわれるかもしれません。でも見方を変えれば、誰かにとっては同時に新たな苦しみを生みだし新たな問題を生み出すんではないでしょうか。
どこを選んでもどこかに苦悩の種を残すということは選ぶことが正解ではないのかと思ってしまいます。人間が理屈で理論をするときに、人間が世間の物差しでなにかをはかるときにはどうしてもどこからみても完璧ということはありえないわけで、仏教の価値観というものは誰にあっても普遍的なものでなければならないと思います。
そもそも仏教の目的というのはまずは自分自身が仏教によって救われるかどうかではないかと思います。脳死は人の死かどうか。という議論に宗教者がはいってああでもないこうでもないということ自体が仏教の本来の目的と少しずれているような気がします。仏陀の毒矢の例えがありますが、理屈ではないところの部分ではないと思います。
仏教の目的は苦しみの種を減らすことです。どういう形であれどこかで苦しみを減らしてもどこかで苦しみが増えるような議論に、自分はジレンマを感じて、そこに自分がどうしても加われない気がしてしまいます。
仏教の根本はその人間の根源的な部分に関わることだと思います。仏教っていうのは自分の体温で世界の温度をあげるような途方もない作業かもしれません。法律をいますぐかえればいいというのではなく、自分はこれから法律をつくっていくであろう人間や、自分の手の届くところにいる人たちだけでも仏法に触れる機会があってその中でなにかを感じてもらえたらなにかがかわるのかもしれないと思います。というかそれぐらいしかできないんですけど。
現代の抱える様々な問題とその議論は、仏陀が死んだらどうなるんだと問われた時にそんなのわかんない。と答えたときの議論に似ているような気がします。
自分にできるのは脳死の場面に立ち会うことになった遺族が、死というものをどういう形であれうけいれられる、真宗的な言い方ですがそれこそ阿弥陀さんのはからいにお任せしようと思えるような種をまき続けていくことであり、まずは縁のあるところ手の届くところに仏法の種をまくことだと思います。
コメント(2)
| 2009年6月24日 12:34
22日掲載拝読させて頂きました。重いサブジェクトですね。『自分がどうしても加われない気』とのご心境、蓋しだと拝察させて頂きました。宗教はあれやこれやの現実世界から超絶した処で人を救う処に本源的な価値がある筈です。その現実に巻き込まれてしまっては本文から外れるとの違和感ではないでしょうか。『自分の体温で世界の体温をあげる』とはいいですね。社会に於いてもの凄く疲労する部署を受け持っておられるわけですね。頑張ってください。
遠藤 拝
| 2009年6月24日 13:04
コメントありがとうございます。ほんと脳死だけでなく死刑制度についても僧侶の中でさえもたくさんの意見があります。これが正解ということはないのでしょうが、そこにジレンマを感じることがあります。




