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三願転入

| コメント(5) | 09年06月25日


「三願転入について」

三願転入ということについて考える機会をいただいたので自分なりにまとめてみたいと思います。

まず三願転入というのは教行信証の化身土巻に書かれている部分です。

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思義往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。

この中には親鸞聖人自らの心の動き、変化が顕著に書かれているわけです。ただこれだけ読むととても難しいそうに感じますが。これを自分なりに解釈して紐といていこうと思います。いまの自分の中のご領解ということで読んでいただけたらと思います。

まず論主というのは世親のことを指し。宗師というのは善導のことを指します。

論主の解義と、宗師の勧化という部分の「解義」と「勧化」という問題に触れますとここだけで長くなってしまいますので今回はここには触れずに、解釈をしますと、ようは親鸞聖人は世親と善導に依って「久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る」となるわけです。

「双樹林下」とは、お釈迦様が入滅する時、近くに2本の木があったのがその名前の由来らしいですが、つまりはお釈迦様の入滅を指します。お釈迦様の入滅はいうなれば、悟ったものの穏やかな死といいますか、「やることはやったし、思い残したことはない」といって死んでいくという悟ったものの理想的な死の迎え方です。

しかし人間というのはそんな穏やかな死を迎えるということは難しいわけです。むしろいやだ!死にたくない!というのが自然です。

だから親鸞は言い換えれば、お釈迦様の悟り、お釈迦様のように死んでいくなんて無理でしょう。人間がそこにいたるなんてことは難しい。お釈迦様だからできたようなものの・・・ということではないかと勝手に解釈します。

ではどうしたらいいかということになるわけです。

ここからが私の解釈ですが、親鸞聖人の生き方に照らし合わせてこの三願転入を考えてみたいと思います。

まず先ほども書きましたが、お釈迦様が悟りを開かれたらしいぞと。そして穏やかに入滅をされたらしい!という話をきいて。多くの人がわれもわれもとそこを目指します。それ比叡山だ!比叡山で修行だ修行!というわけです。

親鸞聖人も長い間比叡山で修行をされました。

このあたりが三願転入の三願のうちの「19願 至心発願の願」を指すのではないでしょうか。経典でいえばここの教えの背景には観無量寿経があると思います。つまりは、「わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません」という仏陀の教えにスポットを当てるわけです。

そして功徳を積んでそこを目指すわけです。

しかしここで問題が、功徳を積みたくても積めない自分にぶつかるわけです。さらには弱い自分が浮き彫りになるわけです。人間いきていれば食わなきゃいけないし、楽もしたいし、この現代では功徳だけを積んで生きていくなんてできない・・・

こりゃもうだめだ比叡山をおりよう。おれは弱い人間なんだ・・・ああだめだ・・・おれは駄目な奴だどこかに引きこもってしまおう。と心を悩ませて親鸞聖人も山を降りられたのではないかと思います。そしてほんとに六角堂にこもるわけです。

この六角堂では久世観音がでてくる話などあるのですが、そこはちょっと今回はおいておいて、そして一人悩んだ親鸞聖人・・・もうお坊さんやめようかな。とか思ったかもしれません。自分なんかが悟りを開くなんて・・・と。
そこで右往左往しているときにお念仏に出遭うわけです。いいかえればここで阿弥陀仏と出遭うわけです。

ここで19願と20願の変わり目かもしれません。自力で修行しても功徳を積んでは崩れ積んでは崩れ・・・そこで阿弥陀さんが言うわけです。

「わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません」

言いかえれば、大丈夫ですよ。そういう弱い人間でも。とにかく私の名を呼びなさい。そしたら救ってあげますよ。私の住んでる極楽浄土へ想いをめぐらせなさい。そして10回でも私の名前を呼べばそれで全部チャラにしてあげますから。ということではないかと思います。

ここの背景にあるのは、阿弥陀経です。阿弥陀経には極楽浄土の様子が事細かに記されているわけです。極楽を想像して私の名前を呼べばいい。というのが20願の指すところではないかと思います。

それに出遭った親鸞聖人は、涙がでるほどありがたかったと思います。そしてお念仏の道へ入っていくわけです。とにかくお念仏だ。念仏を唱えよう。

なまんだぶつなまんだぶつ・・・・なまんだぶ・・・

なまん・・・だぶ・・・

やっと自分の救われる道を見つけた!と意気揚々とお念仏を長い間唱えているときにふとまたダメな自分が顔をだしてきて頭をよぎってしまうわけです。

これで本当にいいのか・・・お念仏さえ唱えたら極楽にいけるというけれど、本当かな・・・しかも極楽にいけるはずなのに・・・私は全然うれしくないぞ。そもそも極楽とは本当にあるんだろうか・・・

と親鸞聖人感じてしまうわけです。とても感受性のすぐれた素直な人だなと親鸞聖人のお人柄が偲ばれますが、お念仏に出遭い真宗門徒として生きている自分も含め、ほとんどの人がまだここの段階で足踏みをしているのではないかと思います。

そこでハッとするわけです。阿弥陀様があれだけ救ってくれると言っているのに・・・極楽なんてすばらしいところを用意してくれているのに、自分はそれすら疑ってしまう。本当にダメなやつだ。これじゃ比叡山を降りたときと同じじゃないか・・・ああもう自分は救いようがないな。阿弥陀さんももう愛想つかしちゃうだろうな。と落ち込むわけです。

するとにこにこして、いやニヤニヤしながら阿弥陀さんが言うわけです。

本当にあなたは駄目な人だ。どうしょうもない。と追い討ちをかけるようなことを言うわけです。でも最後に一言。

でもね。それが人間です。そんなことは想定の範囲内ですよ。
あとは全部まかせなさいと。

するとその言葉にお腹の底から何かが湧いてくるわけです。おおお阿弥陀さん・・・・と涙まででそうな勢いです。

この「阿弥陀さん」という声。これこそが真実のお念仏になるわけです。はじめに私の名前を唱えなさいといって呼んだ「阿弥陀さん」とは全くの別物です。

そしてさらに気づくわけです。ああ。極楽を用意してますよ!しかも名前さえ呼べば救われますよ。とあえてそんなわかりやすいことを用意したのは、それでもどれができない。そんな簡単なことすらできないということを自ら気付かせるためだったんだ!!というわけです。そこであの極楽浄土というものが方便であったとも気付かされるわけです。

いままでのお念仏はつまりは難思往生、つまりはそこはまだ自力であり、真実ではなく方便の1つであったわけです。

ここで初めて18願に至りその心をお腹の底から味わうことができるのではないかと思います。この20願から18願へのかわりめをまさに聖道浄土のかわりめありというのかもしれません。

「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」

ああ理屈じゃないな。阿弥陀さんの懐は自分が思ってたよりも深く、自分の想像できるようなもんじゃなかったんだ。奥が深すぎるな。結局は掌の上だったんだと気付かされ難思議往生に至るわけです。ここの背景には大無量寿経というお経があります。

つまりはもうお任せするしかないんだな。理屈こねるのをやめよう。考えても考えても所詮すべては阿弥陀様のおはからいの中なんだということに深く気づかされるということではないかと思います。そしてすべての出来事は阿弥陀さんのおはからいなんだと思うことですべての出来事にはもう意味があるわけです。そしてそこに感謝の念がわいてくると。

ここまで考えましてもう一度冒頭の一文

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思義往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。

なんとなくいままでの流れをみますとはじめよりもすっと自分の中に入ってくるような気がします。

最後は理屈こねてるんじゃないんですね。本当にこの三願転入というものを紐とくに、親鸞聖人という人のお人柄、また真宗の奥深さというものに素直に感情移入できるような気がします。またお念仏に生きていくという上でこの心の変化、この順序というのはとても重要な部分ではないかと感じます。

自分なりのご領解ではありますが、三願転入について述べさせていただきました。

 

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脳死問題について

| コメント(2) | 09年06月22日
脳死と臓器移植の法案が衆議院で可決され、自分の周りでもたくさんのお坊さんが議論をしています。つい先日、あるお坊さんが、もっと医学者・哲学者・教育者・宗教者などを巻き込んで活発な議論をすべきだ!と言っているのを聞きました。
 
しかし脳死は人の死かどうか。医学者・哲学者・教育者・宗教者などを巻き込んで 活発な議論がなされたら答えの出ることなのでしょうか。
 
どうしても自分の中で人間というものの凡夫たる所以を深く省みるとどうしてもこの議論をして、法律を改正できたら、改正されると世界から苦しみが減るのかと思ってしまいます。この法律がしっかりした議論がされて制定された前と後で人間の苦悩の数は変わるのか。
 
そもそも人の命というもの、または死というものにラインを引く、言い換えればそれを理解しようとする、理解しようとするということは自分の価値観の中で判別するということです。それをできると思うことが人間の苦悩であり凡夫たるゆえんではないかと思います。
 
誰かにとってはその法律が制定されれば苦しみが減り、たくさんの命がすくわれるかもしれません。でも見方を変えれば、誰かにとっては同時に新たな苦しみを生みだし新たな問題を生み出すんではないでしょうか。
 
どこを選んでもどこかに苦悩の種を残すということは選ぶことが正解ではないのかと思ってしまいます。人間が理屈で理論をするときに、人間が世間の物差しでなにかをはかるときにはどうしてもどこからみても完璧ということはありえないわけで、仏教の価値観というものは誰にあっても普遍的なものでなければならないと思います。
 
そもそも仏教の目的というのはまずは自分自身が仏教によって救われるかどうかではないかと思います。脳死は人の死かどうか。という議論に宗教者がはいってああでもないこうでもないということ自体が仏教の本来の目的と少しずれているような気がします。仏陀の毒矢の例えがありますが、理屈ではないところの部分ではないと思います。
 
仏教の目的は苦しみの種を減らすことです。どういう形であれどこかで苦しみを減らしてもどこかで苦しみが増えるような議論に、自分はジレンマを感じて、そこに自分がどうしても加われない気がしてしまいます。
 
仏教の根本はその人間の根源的な部分に関わることだと思います。仏教っていうのは自分の体温で世界の温度をあげるような途方もない作業かもしれません。法律をいますぐかえればいいというのではなく、自分はこれから法律をつくっていくであろう人間や、自分の手の届くところにいる人たちだけでも仏法に触れる機会があってその中でなにかを感じてもらえたらなにかがかわるのかもしれないと思います。というかそれぐらいしかできないんですけど。
 
現代の抱える様々な問題とその議論は、仏陀が死んだらどうなるんだと問われた時にそんなのわかんない。と答えたときの議論に似ているような気がします。
 
自分にできるのは脳死の場面に立ち会うことになった遺族が、死というものをどういう形であれうけいれられる、真宗的な言い方ですがそれこそ阿弥陀さんのはからいにお任せしようと思えるような種をまき続けていくことであり、まずは縁のあるところ手の届くところに仏法の種をまくことだと思います。
 
 
 
 
 

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頭痛

| コメント(1) | 09年06月17日

最近パソコンに向かう時間が多い上に、読みかけの本が何冊かあるし、睡眠しているとき以外にはほぼ眼を酷使している気がします。ほんとに自分の好きなことは目に負担がかかることばかりだなと思います。

先日目からくるものだとは思うのですが、いよいよ頭痛がしてきたもので整体にいきました。

30分ほど首肩頭、腰まで全身施術してもらいました。

そして施術が終わって外に出たら、ものすごいよく目が見えるようになっていました。きっとの眼の神経や首回りがほぐされたのもあるし、少しの間目を閉じて休めていたのもあるのでしょうが、気のせいではなくて、あきらかによく見えるんです。


眼のいいひとにはわかりづらいかもしれませんが、眼が悪い人がはじめてメガネを作ってかけたときに、「ああ。世界はこんなに鮮やかだったんだ」と思うようなものです。

その時にふと、さっきまでの状態でしばらくあたりまえに過ごしてたけど、今になったらあの状態はあんまりよく眼がみえてなかったんだなと気付かされたと同時に、なんとなく仏教や宗教というものもそういうものなのかもしれないなと感じました。

見えるようになって初めて、あんまり見えてなかったということに気づいたわけです。見えるようになるまでは、それで充分見えていると思っているわけです。

人間は対比の中でいろんなことに気づかされます。どんな時でも必ずしもいまの状態がベストであるということもありえないし、今わからないこと気づけないことということがたくさんあるということを知っているかいないかということはとても大事な問題ではないかと思いました。

そこに自覚というものの根本的な部分があるような気がします。

 

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アジサイ

| コメント(2) | 09年06月10日

先日朝いつものように家をでると、家の前の白山通りにアジサイが咲いているのを見つけました。それは色鮮やかに。

それを見つけて、きっとそのアジサイは何日も前から咲いていただろうに、自分は毎朝この道を通っているのに、それに自分が気付いたのはこんなに花が色鮮やかになってからだなんて・・・そう思えばたしかにここのとこいろいろと抱えすぎていて煮詰まっていたかもなと自己反省。

つい口にしてしまう「忙しい」という言葉、これはほんとに時にとても便利な言葉で、いろんな場面で大義名分になってしまうことがあります。

忙しいとは心を亡くすと書きますが、いくらやることがおおくて追われていても、心を亡くさないように、大切なことを見失わないように心掛けたいものです。

花をみて、旬のものを食べて、その季節を心で肌で身体で感じる、そんな花鳥風月に想いをめぐらせるという日本の文化というものは本当に素晴らしい文化だなぁとなんとなくしみじみと感じました。

 

 

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いただく。

| コメント(2) | 09年06月03日

「失う」と書きますととてもマイナスなことのように感じます。

先日ある方が、人間は失わないと気づけない生き物だからね。というのをふと口にしました。だれも耳にしたことのあるようなお決まりのセリフですが、たまたまその話をしていたのが他のお寺の本堂だったのですが、ふと見上がるとそこに観音様がいました。

なんとなくその言葉を聞いたときに観音様を見上げていたら感じたことがありました。

この「失って気がつく」という言葉をよくよく考えてみますと、

「失って初めて気付かせていただいた」
「失って初めて知らせていただいた」

ととることができるように思います。

この「いただいた」という気持ちは真宗ではとても大切なことのように感じます。

それを思ったときに「失う」ということはマイナスかプラスか。
その質問に答えはないのかもしれないとなんとなく感じました。

たわいもない会話の中でしたがなんとなく「いただく」ということはそういうことなのかもしれないなぁと感じたと同時に、真宗の種みたいなものは本当にいろんなところに落ちてるものだなぁとつくづく感じました。

 

 

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