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非僧非俗
| コメント(2) | 09年05月20日
忙しいなんて言い訳にならないですが。
アリストテレスやプラトンやアルキメデスやソクラテス達が星と星をつないで星座を作れたのも、無知の知を思いついたのも、お風呂の水があふれるのをみて質量の法則をおもいついたのも、たくさんの崇高な思考や哲学を生み出せたのは彼らには十分に自分と向き合える時間があったからだと思うことがあります。
当時は身の回りのすべてを奴隷にやらせてたんだからやることと言えば考えるくらいしかなかったろうに。
余裕というと弊害があるかもしれないけど、何もしていない時間を余裕と呼ぶならばそういう時間がなければ生み出せないものがあるのかもしれない。
それは自分のことであったり。
人間のことであったり
生きるってこと。
生死の問題、生老病死の問題。
現代の一番大きな問題は選択肢の多さと娯楽の多さだと思います。
なにもなければいやがおうにも目を向ける先は、四季であったり、風や空かもしれないし花かもしれない。そしてそこから対比される中で自分自身や人間に目をむけられるかもしれない。そこから生まれる感情というのはたくさんあると思います。
でもいまはとりあえずテレビをつける。とりあえずパソコンをたたく。とりあえず携帯をいじる。ゲームをする。とりあえずできることだけでも数え切れないほどある。
その時間に暇だったり無駄かも知れないけどなにもしないでいたら気づけることがあるかもしれないのに。なんにもしてない時間が現代人にはどれだけあるのでしょうか。自分や人に目を向ける時間を持ってる人がどれだけいるのでしょうか。
宗教離れも命の尊さに気づきにくい要因の一つにそういうこともあるのではないかと思います。
末法の世とはよくいったもので人間は抱えるのは簡単なのに手放すことは容易にできない生き物なのに、次から次へ抱えたくなるようなものがあふれてくる。
だからどこかで抱えるのをやめないといつまでも本当に大切なものは見えないのかも知れない。 手放すことで得るものがはかりしれないってことに気づけないまま死んでしまうかもしれない。
そう考えると一番強い人間はなにも持ってない人間なのかもしれない。
「すべてを捨ててしまおう」「捨てる心さえも捨てた」という一遍上人の心がすこし了解できるような気がします。
現代において自分を保って生きるってことは本当に難しいことだと思います。
なんで生まれてきたのかとか。
人は死んだらどうなるかとか。
なんで太陽は明るいんだろうとか。
地球ってなんだろうとか。
そんなことに疑問が浮かびそうになってもテレビのスイッチを入れればそんな疑問を一瞬でかき消す。
自分でなにかを手放して、何かに線を引かなきゃ一生見えないものがたくさんあると思います。どんどんとかき消されていくものがたくさんあるんだと思います。
そのかき消されたものこそが生きていく上ではなにより大切なものだったりすることがあります。
寂円寺で寝泊りをしていた曽我先生が、もう娑婆の話は十分ですわっていったのがなんとなく素直に了解できる気がします。
だからといってすべてを捨てることはできない。捨てることはできないなかで、なにが本当の意味で正しく必要であるのか、考えることをやめないこと。
これも一つ非僧非俗の精神なのかもしれないと思います。
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いただきます。
| コメント(2) | 09年05月11日
「いただきます」
幼稚園でも給食がはじまり、子どもたちはお昼ご飯の前にみんなでそろって手を合せ「いただきます」といいます。そんな光景をみていて、ふと子どもに尋ねてみました。
「いただきますって誰にいってるの?」
そうしたら子どもがいいました。
「お母さん」
「どうして?」
「だってお弁当作ってくれたから」
こんな会話をしました。
なにげない会話だったのですが、しばらくしてそのことを思い出してふと感じたことがあります。たしかにお弁当を作ってくれた人にたいする「いただきます」はすごく大切です。しかしそれだけではなくそれともうひとつ忘れてはいけないのが命にたいする「いただきます」ではないかと思いました。
魚の命をいただきます。
動物の命をいただきます。
野菜の命をいただきます。
いただきますは、命をいただきます。という意味もあるんだと思います。いまはスーパーでは魚も肉も切り身で売っていて、水族館で泳いでいる魚や牧場にいる牛と、自分の食べているお弁当を結びつけるのが難しい世の中です。
でも人間が生きるということはたくさんの命をいただいてはじめて生きていけるわけです。そこに気づけてはじめて湧いてくる感情というものはたくさんあるんだと思います。愛でるということ。感謝するということ。
そういう大切な心の一つ一つはをしっかりと子どもたちに伝えていかなきゃいけたらいいなと思いました。
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先日。
| コメント(2) | 09年05月04日
私事ですが先日2人目の子どもが生まれました。女の子でした。阿弥陀の「阿」に「子」という字で「阿子」「あこ」という名前になりました。
みなさま今後ともよろしくお願いいたします。
毎日病院にいって子どもの顔をみていて日に日に変わっていくその姿に子どもの成長の早さ。また命というものの不思議を感じます。
死んでいく命があって、生まれてくる命がある。当り前のようですが何十年何百年、何千年と続いてきた大きな流れがあるわけです。自分も例外なくその流れにのっているんだなぁとしみじみ感じました。
命というものは本当に不思議なものです。人間はいろんなことを思い通りにしようしますが、どんなにがんばっても命だけは自力では思い通りにはならないわけです。新しい命に触れて改めてその不思議に気付かされた気がしました。




