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いわんや悪人をや。

| コメント(2) | 09年04月18日

子どもを連れて外で食事をしたり、電車に乗ったりすることが多くなると、自分の子どもがぐずっていたり。大きな声で泣いていたりすると、どうにもいたたまれない気持ちになったり、どうしょうもなく申し訳ないような気持ちになることがあります。

そんな経験をして、自分の中で1つ気付かされたことがあります。

自分に子どもがいないときは、周りで子どもが大騒ぎをしていたり、大きな声で泣いていたりしたら、心のどこかではなんだようるさいなぁとか、すこし静かにしてほしいなぁと感じていたことがあったと思います。でもいま自分がそういう経験をしてみると、ああお母さんも大変だな、お父さんも困ってるんだろうなとか。そのいたたまれなさや申し訳ないような気持ちをくみ取ることができるようになったと思います。

人間は自分の立場にならないとわからないことがあります。その時になって初めて気付かされるということがたくさんあるんだと思います。だからきっと今の自分もこれから生きていく中でたくさん、今は気づいていないことに気づかされることもあると思うし、同時にもしかしたら一生気づけないこともあるかもしれないけど、そういうことがあるということに気づけたということで、少しいろいろなことに寛容になれるような気がします。

よく人様に迷惑をかけないようにしなさい。という言葉をよく聞きます。

でも子どもが泣いているときもそうだし、いろいろな場面に出くわすたびに、人は生きている以上誰にも迷惑をかけずに生きていくというのは難しいと感じます。むしろそれは無理なんじゃないかと思います。

好き好んで迷惑をかける必要はないけれど、いくら気をつけていても、誰かに迷惑をかけてしまうのが人間で、もしかすると自分は気づいていないところで誰かに迷惑をかけているかもしれない。

「悪人正機」というのは、人間は罪をつくるまいと固く心に誓ってももしかしたら罪を犯してしまうかもしれない、いろんな縁があって、自分の思い通りに正しく生きようと思っても生きられないのが人間であるし、気づかない間にどこかでだれかにとっては迷惑なことをしてしまっているかもしれないのが人間であると、つまりは自分は善人で、言い換えれば誰にも迷惑をかけていないと思い込んでいる人ほどそれは大きな勘違いであるということに気づいていないということではないでしょうか。

自分はもしかしたら罪を犯してしまう可能性もあるし、どこかでだれかに迷惑をかけているかもしれないし、1人で生きているかのように感じても、気づけばたくさんの命があってその上に初めて生かされているということに気づかせていただく、そこに深く気づいて、心の底から湧いてくる感情が報恩感謝であり、南無阿弥陀仏なんではないでしょうか。

人に迷惑をかけるのはやめなさい。というのではなく、人の迷惑を許せる人になりなさい。というほうが仏教的ですごく真宗的なような気がします。

自分の子どもにはそういって育ててあげたいと最近思うようになりました。

 

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新学期

| コメント(2) | 09年04月11日

まどか幼稚園では始業式も入園式も終り、いよいよ新しい子どもたちがたくさん幼稚園にやってきました。3歳の子どもたちのほとんどはいままでずっとお家にいたわけで、いうなれば生まれて初めて社会にでたわけです。

まだ幼稚園になれなくて、毎日泣いていたり、友達と喧嘩をしたり、園庭をふらふらしてる子どもがいたり、本当にこの時期に園庭の様子をみていると、ほんとうにいろんな子どもがいるなぁと感心します。一言で言ってしまえば個性というものなんでしょうが、まだ生まれて3年しか生きてきていない子どもたちなのにこんなにもたくさんの個性があるものかと驚かされます。

一日中砂場で遊んでいる子、絵本が大好きな子、植物が好きな子、虫が好きな子、運動が好きな子、泣き虫な子、すぐに怒る子、すぐにいじける子、何もしない子、給食を食べない子。

こんなにたくさんの個性、言い換えればこんなにたくさんの違う子どもたちが、1つの園庭でみんなで遊んでいるわけです。

そんな光景をみていて感じたのは、本当にみんなそれぞれの価値観をもっていて、その価値観のどれにも優劣も正しいも間違ってるもないはずで、それはそれであるがまま素晴らしいことなのに、つい大人になると自分と価値観のあわない人を批判してしまったり、あの人はちょっと変わってるよねなどと、とさも自分の価値観だけが正しいかのように、ふるまってしまい、それを押し付けようとしてしまうことすらあるということです。

また現代では情報が氾濫していて、勝ち組負け組なんて言葉が生まれたりしていますが、気づかないうちにたくさんの価値観や優劣を刷り込まれがちです。

しかしみんなそれぞれが個性をもって生きているということをしっかりと自覚して、それぞれみんなが自分というその個性を大切に、ひいては自分自身を大切に生きていくということは大切なことだと思います。バラバラで一緒というキャッチコピーが京都の本願寺の壁に貼ってありましたが、バラバラで一緒。違いを認める心というのはとても簡単なようで難しいつい忘れがちな心だと思います。

それぞれがそれぞれみんな尊く、それぞれの命がみんなそれだけで尊い。天上天下唯我独尊というと自分が世界で一番偉いという解釈をされてしまうことがありますが、言い換えればまさに、バラバラで一緒、この世のすべての生きとし生けるものすべてにやどっている生命1つ1つがそれだけでそのまんまで尊い。言い換えればたくさんの理屈や価値観に振り回されるて人を判断したり優劣をつけたりするのではなく、この命、この身体はそれぞれがみんな自分と同じように尊い存在だということに気づくということが大切だということなのではないかと感じます。

まず自分の尊さに深く気づき、命のありがたさに気づかされるということが、同時に他人の命の尊さにつながるということは、本当に現代に起きる様々な問題解決の第一歩のような気がします。

 

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| コメント(4) | 09年04月06日

いよいよ本格的に暖かくなってきて春本番といった感じになってきました。先日上野を散歩してきました。不忍池の周りの桜も満開に近く、たくさんの人で賑わっていました。後から知ったのですがその日は20万人近くの人が上野公園に花見に来ていたそうです。

 ほんとうに日本人というのは桜が好きなんだなぁとしみじみと感じます。そんな自分も桜が大好きです。桜という花は昔から日本を代表する花ですが。なんで日本人というのはこんなに桜が好きなんでしょうか。

桜の花は満開を迎えたときももちろんですが、桜は散り際こそが美しいとよくいいます。桜の美しさというのはその花の美しさだけでなく、花盛りは短く、そして可憐に潔く散っていくという桜の姿にもあるような気がします。日本人は昔からその姿に自らの人生を重ね合わせたり、またその無常観を無意識のうちに重ね合わせているような気がします。

桜はあっというまに満開になって、そしてあっという間に散っていきます。そして桜は散るからこそ美しい。その瞬間をみんな目に焼き付けようとたくさんの人たちが花見に出かけるわけです。しかしそう考えますと、たしかにこれは私たちの人生でも同じなのかもしれません。命の時間が数週間なのか数十年なのかの違いだけであって、いつか散りゆくことは人間も桜もおんなじです。散るからこそ、いまこの瞬間の輝きが増すというのもおんなじような気がします。

散るからこそ美しいというのであれば、いま自分の命がここにあるのもいつか散るものであって、今日かも知れぬ明日かも知れぬ命であるわけです。桜が散ることは当り前のようにわかっているのに、自分の命が散ることはつい忘れてしまいがちなのが人間です。

わが身の無常観をしっかりと自分の中に感じ自覚することではじめていまこの瞬間の重さ、いまのこの瞬間「いまここ」に感謝の気持ちが湧いてくる。その心を報恩感謝というのかもしれません。「いまここ」にあるすべてに感謝の気持ちが心のそこから湧いてきたときに口を衝いて出るのが「南無阿弥陀仏」なのかもしれません。

西行法師は「願わくば 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」という句を詠みました。この時期に満開の桜の下を歩いているとその気持ちがわかるような気がします。

 

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