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2009年春彼岸法話

| 09年03月21日

今日は因縁、因果ということについてお話をさせていただきたいと思います。

先日腰が痛くて整体へいきました。すると整体の先生に、寒いことで姿勢が悪くなると、腰だけでなく内臓やいろんなところに負担がかかり、あちこちと調子が悪くなる人が多いんですよと言われました。寒くて姿勢が悪くなるということが、体にもたらす影響は大きいというわけです。

その話をアメリカに住む友人に話したところ、アメリカでは頭が痛いと頭を揉んでくれと、腰が痛ければ腰を揉んでくれという人が多いそうです。しかし頭が痛いのは目が疲れているかも知れない、もしかすると体のバランスが悪いのかも知れない、首肩からきているのかもしれない。頭痛の原因をしっかりとみつけだし、そこをちゃんとほぐしてあげないと、また同じように頭が痛くなってしまうわけです。一見関係ないようでも体というのは色々なところが密接につながっているわけです。

そしてこの密接につながった関係性というのは体だけではないと思うわけです。

いま自分が怒りを覚える。悲しみを覚える、悔しさを覚える。

それにも必ず原因があると同時に、それを消そうとした時に、怒りや悲しみ悔しさ、それを忘れるために楽しいことをしよう、目をそむけて忘れよう。としても根本的にはなにも解決はできてないのではないかと思います。

頭が痛い時に頭をもんで、そのときはそれで一時的に血行が良くなり痛みがやわらぐかもしれない。でもその痛みは姿勢からくるかもしれない、パソコンの使いすぎかもしれない。そこの根源的な部分を直さないとまた同じように痛みだすわけです。

心の問題のその根源的な部分をみつける方法を教えるものが仏教というものなのではないかと思います。

かぜがふけばおけやがもうかるという諺がありますが、

大風で土ぼこりが立つ

土ぼこりが目に入って、盲人が増える

盲人は三味線を買う(当時、三味線は盲人が弾いた)

三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される

ネコが減ればネズミが増える

ネズミは桶を囓る

桶の需要が増え桶屋が儲かる

いろいろな解釈をされることがありますが、これは仏教的にいえばおおいにありえることではないかと思います。事実というものは色んな関係性によって成り立っていて、必ず原因があるということです。

そして苦しみというもののその根源をつきつめていってしっかりと、もとから考えて解決をしていこうと考えたのがお釈迦様です。仏教というのはそういう意味ではとても実践的なものではないかと思います。

仏教ではその関係性を因果とか縁起と呼びます。

お釈迦様はその話をする時にこのようなたとえ話をします。

種をまく。これを地面の上に置いておいても芽は出ません。そこに土をかける、そこに雨が降る、そして太陽が照る、さらにはそれが耕されたり鳥にほじられたりしない。そういうたくさんの要素があってはじめて芽が出ると。

この芽というものをすべての事実に置き換えて考えるわけです。

種は、自分自身の力で雨を降らせたり、太陽を照らしたり、鳥を追い払うことも出来ません。自分の身を任せるだけです。

言い換えればこの自分の力ではどうにもならない太陽の光や恵み雨を他力というわけです。

そしていいこともわるいことも、この因果のなせるわざであると説かれたわけです。

最近の痛ましい事件を見ましても、友達もいない、仕事もクビになる、また親にも見捨てられる、そして自暴自棄になって通り魔をおこすと。彼にはそれを起こしてしまう因果がたくさんあったわけです。

逆に自分が、その様な事件を起こさないというのは、自分にはたまたまその因果がなかったからであるというわけです。もしかして何かがどこかでおかしくなっていて、友達に恵まれなかった、家族に恵まれなかった、仕事をクビになった、と自分もその彼と同じような因果があったら、もしかしたら自分にも彼と同じような芽が出ていたかもしれない。

もちろん犯罪を犯すということは悪いことです。しかし自分が善人で犯罪者が悪人であるとするならば、その間にあるものというのは本当に紙一重なのではないかと思います。

すべての事実は関係性、いわば因果でなりたっていると。つまり物事というのはそのもの自体でなりたっているわけではなく、たくさんの要因やたくさんの縁でなりたっているといえるわけです。1つのたとえ話ですが、親子というのも縁起です。

一般的には親が子を産むというのはあたりまえのようですが、正確には子どもがうまれた瞬間に同時に親が誕生するわけで。子どもがいなければ親はないわけです。世の中のすべてのものがそうです、社員がいなければ社長じゃない、魚がいなけりゃ魚屋ではないわけです。

このような関係性、縁を仏法では「一如」という言葉で表現することもあります、または「空」という言葉でされることもあります。

この関係性に気づかせていただく、人間は自分一人で生きていると、自分の力で人生を切り開き、自分の命、自分の人生は自分のものであると思い込んでしまうことがあります。

しかしよくよく考えてみますと、生まれるときからすでに父や母や、またその父や母といった長い命の関係性の中に生まれているわけです。また人生に置いても自分で決断したと、思うようなこともよくよく見てみると、そこには「たまたま」あの一言が、「たまたま」あの時の出会いが、「たまたま」そういうことがたくさんあるのではないかと思います。

そのたまたまの御縁というのを他力というのではないかと思います。

人間は自力でなにかをしていると思っているけども、それを一歩ひいてみさせていただく、そうするとそこに自力以外のなにかが干渉しているということに気づかされるわけです。たくさんの関係性に支えられている自らに気づかされるわけです。

その時になんだかわからないそのたまたまの連続で今の自分が生かされていると自覚できるのではないでしょうか。

そもそもなんでそんな関係性を知る必要があるのか、それに気づかされるとどうなるのかというところなのですが、仏教のそもそもの目的は人間の苦しみ「生老病死」の避けられない苦しみとどうやって向き合っていこうかということです。その方法の1つとしてこの因果を知るということがあるわけです。

自分の中で、たくさんの縁によって自分が生かされている、という自覚がいよいよ自分の中で深く深くなってきますと、あああがいても、あがかなくても目の前の事実というものは大きな流れの中にあるのだなと、そこに身をゆだねて生きようと、一種あきらめのような、ひらきなおりのような感じ感覚なのかもしれませんが、そこに行き着いたときにはじめて、自分の身を他力に委ねようと思えるのではないでしょうか。それが真宗のいう他力本願ということではないかと思います。

そしてその時に口を衝いて出る声こそ「南無阿弥陀仏」のお念仏なのではないかと思います。

先日まで門前の掲示板に金子大栄さんという方の言葉に「念仏は我の崩れる音」という言葉が書いてありましたが、まさに降参しました。自分を超えてなにか不可思議なる他力の妙悠にみ身を委ねるということなのではないかと感じます。

自分自身はまだその深い所まではわかりません。自分の人生というものが自力ではなく他力で成り立っているのだとしたら、何かむなしさや、がんばっても無駄なのかと思ってしまいそうですし、なにか決められたレールの上のような感じがしてしまいます。そのように感じてしまう自分自身を、まだまだ自力の枠にとらわれている証拠なんだなと実感させられます。

根っこの部分で自分の人生が自分の手から離れた瞬間というのは、きっとものすごくすがすがしく自由なんじゃないかと、そういう自覚ができると、今この瞬間というものの重み、この瞬間のあること、すべての御縁に感謝の気持ちがわいてくるのではないかとおもいます。

それを報恩感謝というのではないかと思います。

真宗には「御了解」「ごりょうげ」という言葉があります。真宗ではとにかく「御了解」を述べなさいということをいいます。「御了解」というのはいまの自分の中にある真宗を自分の了解している範囲で口に出しなさいということです、正しいか間違っている、ではなく口に出して、それをたくさんの人にさらして間違っていればお互いに正していく、そこからまたお互いが聞法をしていくということです。これは決して独りよがりになるなということだと思います。そして教科書のように、お経を読んで説きなさいというのではなく、お坊さんも、そうでない人も一緒に生きていくこと考えなさいということだと思います。それが聞法であり、御同朋であるということではないかと思います。

その言葉にであって自分はすごく気が楽になりました。

またここにいる皆様の中でも今日の話を聞いて、また自分の中でも同じようなことを感じる、いやそれは違うのではないか、ということがありましたらぜひお寺に足を運んでいただいてお話をきかせていただきたいと思います。

本日はこのような機会をいただきまして本当にありがとうございました。これで私の話を終わらせて頂きます。

副住職

コメント(2)

遠藤 正樹 | 2009年3月23日 12:43

副住職さま

いつものことですが寂円寺の門をくぐりますと、普段感じない類の緊張感を感じます。そこかしこの雰囲気から、ご住職始め皆様のご努力が偲ばれます。
お話ありがたく拝聴させて頂きました。生老病死の話でいつも感じることですが、時間的には生の部分が圧倒的に長いはずですが、一文字しか与えらていません。一方、時間的には短いはずの老病死には3文字が与えられています。深い意味がありそうな気がします。生の歓びは確かにあります、これは分かりますし実感もしてきました。又、親鸞聖人も大いに肯定されておられる処ではないでしょうか。ただし、老病死からもどっこい同じ程度の歓びが実は得られるのではないかと。老病死をどう捉えるかで歓びにもなるし、単なる苦しみに過ぎなくなってもしまう辺りが難しい課題だと感じておりますが、ただ、何となくですが、失うことからしか得られない歓びもあり、それは少しも派手で無く、しっとりとしたもので、とてもいいものです。3文字にこめられたもう一つのメッセージかも知れません。
それからH/Pとても結構な出来です。構成といい、色使いといい、格調が高くとても良い仕上がりだと思います。ではまた。
寂円寺檀家 遠藤 正樹 拝

副住職 | 2009年3月28日 07:21

遠藤様コメントありがとうございます。

お釈迦様は、はじめに生老病死の4つを苦しみであると考えられました。その苦しみをどう受け止めるかというところが仏教の課題です。そして最後にいきついたのは苦しみを生み出しているのは自分自身であると。遠藤様の言うとおり、どうとらえるかで歓びにもなるということではないかと思います。

生老病死を自分のこととしてしっかりと受け止めていく。自分の中に落としていく。とても難しいことですがとても大事なことだと思います。生老病死に限らず日常の中で自分におきたこと、自分の目の前にあることを1つづつ自分の中に落としていけたらと思っています。

コメントありがとうございました。

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