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お盆を終えて。

| コメント(2) | 17年08月22日

 

夏を迎えるとふと思いだす言葉があります

 

「ケイ蛄(けいこ)春秋を識らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽の節を知らんや」

 

これは曇鸞大師のお言葉です。曇鸞大師は中国の僧侶であり、七高僧の中の一人にあげられている方です、若くして出家をされて、仙経を学んでいたのですが、のちに菩提流支という方に出会い、仙経を焼き捨てて本願をあきらかにされました。

 

例え話の上手な方だったそうでいくつかの例え話が伝わってきています。

その曇鸞大師のお言葉が冒頭の一文になります。

 

ケイ蛄とはセミのことです。セミは春や秋を知らない、春や秋をしらないセミがどうして今が夏(朱陽の節)だと知ることができようかという意味です。

 

セミは夏の生き物と私たちは思っていますが、とうのセミたちは、7年間地中で生活して、そして、夏になって地上に出てきて、三週間ほどで死ぬと言われています。ですからセミは春や秋を知りませんし、ましてや自分の出てきた季節が夏であるということも知りません。

 

これは例え話なのですが、これはなにを例えているかというと、セミとはつまり私たち人間のことを指しているそうです。

 

今この瞬間が夏であるということは、春秋冬をしるからこそ、そこからの比較で夏をしることができる、自分の住む世界の中だけにいては、そこにいる自分自身のことはわかっているようでなにもわかっていないということです。そしてそこで必死に命を精いっぱい燃やして、この瞬間を消耗して生きているということです。

 

仏教では私たち人間は「迷いの世界」にいると教えています。

ところが、私たちは一向に迷いの世界にいるという自覚がありません。

 

自分が迷っていることすら気づいていないわが身を「凡夫」という言葉で表されます。

といいますと、多くの人は生活の中に、人生の中に、迷いも苦しみもありますというかもしれません。

 

しかし、私たちの根源的な苦しみは社会や、世間というところよりももっと深い根源なところからくるということが仏教の教えです、表面的な苦を解決しながら生きていく中に、その根源的な苦を正しくうけとめることを忘れてしまっているというわけです。

 

人間の視野というのは、どこまでも自分の視点からしかみることができません、そしてその視点は世間の価値観の中で、180度かわってしまうくらいに不確かなものを頼りにしています。

しかし不確かなものを頼りにしているということにもなかなか気づくことができません。

 

その気づきへの第一歩が、まずは自分自身の置かれている状況を正しく受け止めることつながってきます。

 

いざ自分を一歩引いてみたときに、生きることの無常、そして現実の非情、そういうものに目を背けることができないことに気づかされます。その一つ一つをしっかりと受け止めた時に救われるしかないわが身が浮き彫りになります。

実際にはそれが何よりも難しく、その現実を受け止めようと思っても、自分の中でまたいろいろな都合や理由をつけてフィルターをかけてしまいます。

 

しかしながらその現実の中にこそ、人間のはからいをこえた命ということがある、命は自分の中から発露しているかのようで、たくさんの絶妙なバランスの上になりたっているという事実を見つけることができます。

 

そこに「生きている」という意識から「生かされている」という意識への変化も生まれてくるのかもしれません。

 

「月影の至らぬ里はなかれども、ながむる人のここにぞ住む」

親鸞聖人の師であられた、法然上人の詩があります。

 

そして、そのありのままのわが身に気づかされた時に、この身にすでに月の光がさしていることに気づかされる。そしてこの瞬間、今の季節がなにかもわからないまま命を燃やし続けているわが身を一歩引いて知らさせていただくことができる。

 

この「一歩」こそがとても大切な「一歩」であるように思います。

 

お念仏とはその一歩を歩ませてくれるものです。

 

その一歩を歩みだすために、まずあるがまま、目の前にある現実にしっかりと意識をむけていくこと、その感触をひとつひとつ確かめることを、味わいながら生きるということになるのではないでしょうか。

 

迷いの世界にいながら迷っていることに気付かない。そんな我々衆生を「目覚めて下さいよ。迷ってますよ」と揺さぶりかけてくる声が「南無阿弥陀仏」なのです。

 

それは「悟りの世界」からの呼びかけです。その世界からの働きかけがなければ、私たちは

到底「迷いの世界」にいることを自覚することはありません。

 

浄土真宗に帰すれども

真実の心はありがたし

虚仮不実のわが身にて

清浄の心もさらになし 

 

親鸞聖人のご和讃の言葉です。

 

真実の心(悟りの世界)に照らされて初めて虚仮不実のわが身が見えてきます。そこに気づかされてはじめて、謙虚にあろうと自然と頭が下がるのかもしれません、その時、私たちは迷いの世界にいながら、迷いの世界を超えた世界を知ることが出来るのかもしれません。

 

副住職

 

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桜さく。

| コメント(2) | 17年04月06日

お彼岸が過ぎて、春の風が吹いて、気候も穏やかになってきました。

桜の花も一気に開花したようです。

当たり前のことですが、ちゃんとその時期になると、その時期の花が咲くというのは、よくよく考えてみると不思議なことであります。

それが日照時間だけなのか、他にもたくさんの影響があるのかわかりませんが、いろいろな変化が起きていて、そのすべての要因のひとつひとつがさくらのつぼみを膨らませ開花させています。

なにかその要因がひとつでもそろわなければ花は咲かないのかもしれませんが、毎年毎年、その多くの要因が日々刻々とした変化の中で実り、花をつけ、しっかりと咲き誇り、やがて風が吹けば散っていくわけです。

あらためてその一つの現象をよくよく感ずるにそこには人間の頭や知識だけでは計り知れない数多くの縁があるように感じます。

先日、ある方と話をしているときに、その方が、

「生きる」ということがある瞬間に「生かされている」という感覚に変わってきたとおっしゃっていました。

命があるという意味でいえば、生きるでも生かされているでも同じなのかもしれませんが、この命がここにあるという現実をどのように受け止めるのかということは浄土真宗の教えの中でもとても大事な根幹につながってくることだと感じます。

生きているというのは、自分自身が能動的に命を発しているようなニュアンスが感じ取れますが、生かされているというのは、命というものにとても受動的であるように感じます。

その命ということを考えたときに、その言葉、その話が先ほどの桜の話にもつながってくるように思います。

植物でも人間でも、この命という現象、事実は目に見えぬたくさんの縁の中に、影響されて縁がそろえば実をつけ、縁がそろわねば実はつかぬわけです。

雨が降り、あたたかな日差しがさせば、緑は芽吹き、風が吹けば花は散るわけです。風に吹くな、雨よ降るな、太陽よさすなといってもそれは自分の範疇を越えた先にやってきます。

やなぎの葉が風に揺れるように、人間の人生もそのような不可抗力、たくさんのご縁を意識的にも無意識的にもたくさんうけて、右に左になびきながら、ときに幹が傾いたり枝が折れたり、またそこから新しい芽を芽吹いたりしながら、それがいい影響を、そしてときにそれは悪い影響を及ぼしながら生きています。

自分の意思というと自分の自我の中から発露してくるもののようですが、自我もすでのこの大きなご縁の影響を存分に受けてつくられていくわけです。

そしてそのたくさんの影響を受けながらこの瞬間、こうして息をして、ひとつひとつ鼓動している命がここにあるわけです。

「生きる」ということ「生かされている」ということ、この2つの違いはこのような視点の中から生まれてくるように思います。

この視点の違いはすなわち、自分からみた視点と同時に、俯瞰的な大きな視点を獲得するということでもあります。このおおきな俯瞰的な視点を持つことで、人間は自分自身の分限をより明確に知ることができるのかもしれません。

その分限を越えた先になにがあるのか、それが聖道浄土のかはりめにつながってくるのかもしれません。

念ずるという漢字は、今に心と書きます。それはこの瞬間に想いを馳せて、過去でも未来でもないこの瞬間に私自身がいるということをしっかりと受け止めてお念仏を申すことは、すなわち、生きていることから「生かされている」ことへの転換であり、その現実をしっかりと受け止めるという心の響きなのではないかとおもいます。

副住職

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あけましておめでとうございます。

| コメント(2) | 17年01月18日
あけましておめでとうございます。
といっても新年があけてだいぶ経ってしまいました。

元旦の修正会にはたくさんの方にお参りいただきありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

さて、幼稚園では今年度も残すところあと3ヶ月、1年の活動もいよいよ大詰めの時期にはいりました、そんな中、先日幼稚園でみかけた場面の話です。

園庭で縄跳びをもち、下を向きたたずんでいる3歳の男の子がいました。
 
うつむいたまま微動だにしないその子を遠目に見ていて、
なにか嫌なことがあったのか、どこか痛いのか、具合でも悪いのだろうかと思って、そっと近づくと小さな声でなにかつぶやいていました。
 
「発車までいましばらくお待ちください」
 
その子の進む方向をみると、他の子どもが三輪車で遊んでいます。
三輪車が通過するのをまって顔をあげると、
その子は勢いよく縄跳びをもったまま走り出しました。
 
「次の駅はオオカミ駅~」
 
ただ黙って立ち尽くしているように見えた子供の目には、
まっすぐに線路が見えていて、
次の駅へ向かうための安全を確認していたようです。
 
たたずんでいる時間の中にもしっかりとした遊びのイメージができあがっていたこと、そして4月では考えられなかったその遊びの広がりに成長を感じました。

あたりまえのようなことですが、この遊びひとつが出来上がるまでに1年の時間がかかります、そしてこれからこの遊びは、一人だけのイメージで完結していたものが、お友達や先生たち、自分以外の人たちとイメージを共有し、一つの世界をみんなでつくっていくというように展開していきます。

1日1日にこうした成長を感じながら、新学期に向けて気持ちを引き締めてまいりたいと思います。

副住職

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自由。

| コメント(2) | 16年12月06日

あっというまに12月です。

6月に小学生を対象とした学童保育「ratoon」を立ち上げてはやいものでもう半年がたちました。

その中で気づかされたことがあります。

 
それは子どもにとって「自由」というものは、
とても難易度の高いものであるということ、
そしてその難易度をあげてしまっているのが「評価」であるということです。
 
ratoonにきた子ども達をみていて、
さあ自由に好きなことをしていいよというと、
大抵の子は、自分の知っているもの、
得意なものを手に取って挑戦をします。
 
それを突き詰めていえば、
はじめて挑戦してもそこそこできそうなもの、
過去にいい評価を受けたことのあるものという分類ができます。
 
それでもはじめてみるものや、
見たことがないものへの好奇心は隠しきれず、
そこから湧いてくる挑戦したい想いと同時に、
うまくできないこと、
評価されないかもしれないことへの怖さみたいなものを
意識的にも無意識的にも天秤にかけているようにもみえます。
 
子どもはいつだって自由かというとそんなことはなく、
子どもほど周りからの評価をきにして、
自分の分限の幅を空気の中から読み取ろうとしている、
そしてなによりも周りからの期待に一生懸命答えようとしています。
 
その天秤のバランスをとりながら、少しづつ好奇心の扉を開いているように見えるのです。
 
そのペースは大人の思うよりもとてもゆっくりで、
その扉を大人が無理にこじ開けないようにしたい、
ゆっくりと扉を押していくペースを考えなければなりません。
 
ratoonにきた子がはじめに口にする、
これ自分でやっていいの?
うまくできないかもしれないよ?
子どもがつかっていいの?という言葉。
その言葉はそのまま子どもたちの生活や置かれている状況の写し鏡なんだろうと思います。
 
どんなこともトライアンドエラーを繰り返して、物事は深度を深めていくことができる。その中で想像を膨らませ、創造を楽しむことができる。
 
失敗してもいいんだよと大人はいうが、
子どもが安心して失敗できる環境をどれだけ整えられているのだろうか、
無意識的にも成功ばかりを評価しているのではないだろうか、
大人が率先して失敗し、トライアンドエラーをする姿勢をみせていられるだろうか。
 
ratoonを始めるときに、子どもたちが自由に好きなことをできる場所にしたい、そこで想像や創造にあふれる環境をつくりたいと思いました。
 
しかしはじめてみて、まずでばなで気づかされたのは、
いかにその環境を周りにいる大人が狭めていたのかということです。
 
子どもの行動は本当に写し鏡です。

まずは一つづつ。
 
安心してトライアンドエラーすることで、やっていいことの分限をひろげ、その経験をつながりの中で共有できる場所づくりをしていきたいと思います。
 
環境をつくるということはとても難しい。
難しいというと十把一絡げですが、
 
どんな場面でも「いい環境」というものに定義があった時に、
 
そこには物質的な充実というものの占める割合よりも、

そこを作る目に見えない要素、言葉や姿勢、想いや願いというものの占める割合が大きくなっていなければいけないのだということを実践をもって感じる今日この頃です。

副住職

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蜘蛛を見つけた話。

| コメント(1) | 16年07月20日

6月に小学生を対象とした学童保育「ratoon:ラトゥーン」を開室しました。ratoonとは新芽という意味です、幼児教育は人間形成の根っこの部分だと位置づけるのであれば、小学生になりそこから芽生えたちいさな新芽の心にもしっかりと、心をよせていきたいという願いが込められています。

http://www.ratoon-m.com

学童保育を開室してはや2ヶ月、あっというまにここまで駆け抜けてきた気がします。

これから少しずつそこで感じたことなども書いていきたいと思います。

蜘蛛を見つけた話。

先日、学童に初めてくる子供がいて、常連の子供たちとの間にすこし壁みたいなものがありました、
入室してからもしばらくそれぞれが会話を交わすことなく過ごしていましたが、そのうち一人の女の子が蛙を取りにいきたいといい、みんなで連れ立って田んぼに蛙を取りに行くことになりました。
 
田んぼについてしばらく、それぞれ蛙を追いかけたり、捕まえたりしながら過ごしているところに、大きな蜘蛛を発見。
 
子供たち騒然、みんなで捕獲に挑戦、大格闘の末無事に捕獲。
 
蜘蛛を飼育ケースに入れると、みんなは口をそろえて「気持ち悪い!」「無理!」「やめて」という幼いボキャブラリーの中から思いつく限りの罵詈雑言を蜘蛛にあびせました。
 
それをみて、その蜘蛛を連れて帰ることにしました。
 
「気持ち悪いよねぇ」
「ねぇ」
「うん」
 
帰りのバスの中では、いままでお互いの距離感をしっかりととっていた子供たちが同じ気持ちになって、会話をしはじめて「気持ちが悪い」という共通の気持ちを共有することで一体感を得ているように感じました。
そしてその「気持ち悪い」という感情が蜘蛛だけではなく、
それをいとおしそうに持ち帰ろうとしている自分にも向けられているのだということには気づかないふりをしつつ・・・
  
「気持ち悪い」という感情で結びつくことがはたしていいことなのかどうか。ということはこの際はさておいて、
この蜘蛛の捕獲があったことで、部屋に戻ってからの子どもたちの距離はぐっとちかくなったように感じました。
 
昔読んだ藤子F不二雄のマンガの中に「にくまれ屋」という短編漫画があったのを思い出しました。
一人の敵の前では人間は結束するという習性をビジネスにして、
長い宇宙旅行の中にあえて一人憎まれ役がいることで、
他の乗組員の結束が強くなるという話。
 
その話を思い出しながら、たとえば「子供たちの心を一つにつなげる」という目的があった時に、
そこにいきつく方法はたくさんあって、その無数の道筋の何が正解なのかはわからないけど、
その道筋の引き出しを一つでも多くもっていたいと思いました。
その方法はつまるところ人間というものを深く掘り下げていくということなのかもしれません。
 
そして願わくば、この思いつく限りの罵詈雑言を浴びせた生き物にすこしでも興味がわいてきて、
その小さな体験が、はじめはありえないものだと思っていたものでも、好きになれる可能性があるのだということを心に刻む小さな種にはなれないだろうかと思っています。
 
でも、これがもし逃げたら私はもう二度とratoonには来ないと何人かの子供たちにくぎを刺されているので、気を付けて観察したいと思います。

副住職

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こいぼろり。

| コメント(2) | 16年04月17日
幼稚園では、無事に入園式も終わりはじめて親元をはなれ、社会に踏み出してきた子どもたちがたくさんはいってきました。
 
朝幼稚園に来るときに、お母さんから離れられず泣き叫んでいる子、しっかりといってきますといって離れては見るものの、お母さんの顔が見えなくなったとたんシクシクと涙を流す子、1日しっかりと過ごしていたのに、帰りに迎えに来たお母さんの顔をみたとたんに泣いてしまう子。
 
子どもたちにとってこの時期は毎日が戦いです。心と体のすべてをつかって身体全体で成長をしています。
 
この時期の子どもたちを見ていると、1日1日、目に見えて成長していることを実感させられます。
 
そして、先日園に鯉のぼりをだしました。
 
その鯉のぼりを指さして、ある子どもが「こいぼろり」と言っていました。
 
惜しい。
 
鯉のぼりには「子どもたちが元気にすくすく育つように」という願いが込められています。子どもたちが、日々すくすくと元気に怪我なく今年も1年過ごせるようにがんばりたいと思います。

副住職

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インフルエンザ。

| コメント(2) | 16年02月03日

先日の新年会もたくさんの方にお参りいただきありがとうございました。
遅くなってしまいましたが今年もよろしくお願いいたします。

さて、テレビのニュースでインフルエンザの流行が報道されていましたが、私も流行にのってしまい先日インフルエンザにかかってしまいました。急な高熱で数日寝込んでしまいました。

健康なときにはついつい忘れてしまうのですが、病気で布団に寝付いているとなにはともあれ健康が第一であるということを痛感します。藁にもすがるような気持ちという言葉がありますが、高熱が続きますと、まさにその心境この熱がさがり、一日もはやく健康になるならどんな薬でも飲もうという気になります。

親鸞聖人の奥様であられた恵信尼様が、末の娘の覚信尼様に宛てられた手紙の中に、親鸞聖人が熱で苦しんでおられた時の様子を綴ったものがあります。

その文章を意訳しますと、

親鸞聖人が体調を崩されて夕方から寝込んでいた事がありました、次第に症状が重くなってきたようでした。身体に触れると火のように熱く、頭痛も激しくただ事ではない様子でした。

病気になられて4日ほどたった時に、なにかうわごとを言っているようでしたので、どうしましたか?と聞いてみたところ、

聖人は、病気になって2日目から大無量寿経を休むことなく読んでいたのです、すると目を閉じてもお経の文字が1文字残らずはっきりと見えて、これはどうしたことか、不思議なことだと思っていました。

お念仏をよろこぶ心のほかに、なにかまだ心にひっかかることでもあるのだろうかと思いよくよく自分自身のことを思い返してみるに、

17、8年前に民衆を救おうという想いで浄土三部経を1000回、読みはじめたことがあった、しかしその時に、それは大きな間違いだと気づき、名号を称え、お念仏の信心を喜ぶほかに、なにが不足で、お経を読まなければならないと考えたのだろうかと反省して、読経を中止したことを思い出したのです。

その時に反省したはずなのに、今、病気になり、またその時の気持ちがむくむくと湧いてきたのだろうか、お経の功徳にすがろうとする気持ちが自分の中に残っていたのであろう。

自力への思いは、たやすく捨てきれないもので、よくよく注意しなければならないと改めて反省し、

「そうだった、そうであった」とつぶやいていたのだよ。

そしたら、目の前のお経の文字がふっと消えたのだ。

そうおっしゃられた。

そしてまもなく、ひどく汗をおかきになつて、病気は快復されたのでした。

親鸞聖人はこのとき御年60歳前後だったといわれていますが、その年になってなお、自身の自力への執着を隠すことなく反省し、しっかりと我が事として受け止めている姿に心打たれるエピソードです。

この出来事をふと思い出しました、同じような状況の中、恥ずかしながら私の目の前には大経の経典の文字は浮かんでくることはなく、ずっと「とんぷく」という文字が浮かんでいました。

皆様もインフルエンザにはお気をつけください。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

副住職




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冬至

| コメント(2) | 15年12月22日

今年ももう残すところあとわずかになりました。
「よいお年を」と挨拶することも増えてきました。

そして幼稚園も無事2学期の終業式です。9月からはじまった2学期、運動会という大行事を終えて子どもたちの結束がぐっと深まったように感じます。

年が明けるとあと数ヶ月で年長組の子どもたちは小学生になってしまいます。それを思うと寂しい気もしますが、最後のこの大事な3学期子どもたちが楽しく充実した日々を送れるように準備をしていきたいと思います。

いろいろな事に追われていると時間の流れを実感として感じにくくなってしまいますが、子どもたちに中にいるとその時間の流れが目に見えて成長に、そして身長に・・・感じることができます。

確実に、着実に時間は流れているのだなと、そして自分も例外なくその時間の中にいるのだということに気づかされます。

今日は冬至だそうです。ここから夏至に向けて、また少しづつ日が長くなっていくのだということに、知らない間に地球もしっかりと回転しているのだなと。

自分が意識せずとも刻一刻と着実に流れていく時間を、節目節目に思い出し、師走ですけど、走らず落ち着いて1年の終わりを迎えたいものです。

すこし早いですが、今年も1年ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

今年も元旦の修正会は10時から行われます。皆様のお参りをお待ちしています。

よいお年をお過ごしください。

副住職



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おばけやしき。

| コメント(2) | 15年10月13日

新学期が始まりあっというまに10月になってしまいました。
時間がたってしまったのですが、夏の夏期保育に園でおばけやしきを開催しました。

そのときの話をすこし書きたいと思います。

開催にあたり、少し前にお化け屋敷プロデューサーである五味弘文さんのお話をきく機会をいただき、その話を参考にお化け屋敷をつくりました。五味さんの話の中で印象に残っていた、お化け屋敷にはストーリーがあり、ただ恐怖を感じるだけのものではなく、あたたかさ、悲しさ、優しさのような、なにかそこに人間の心を感じられるものをつくりたいという話。

その言葉を参考にストーリーを考えました。

子どもが大好きなおばけ、幼稚園でいつも子どもたちをみていました。

しかし夏休みに入り子どもたちがいなくなり、幼稚園は静かになってしまいました。
それが寂しくて、おばけは子どもに会いたくて幼稚園の部屋の隅にでてきてしまいました。
このおばけは子どもにしかみえません。声も子どもにしか聞こえません。

夏期保育にきた子どもたちは、夏休みの間一人で寂しかったおばけの友達になって、元気をあげることでおばけはお化けの世界に帰ることができるので握手をして友達になってほしい。

これが今回の背景です。

真っ暗な部屋の中の隅におばけが座っています。BGMは阿弥陀経です。さあ子どもたちはおばけと握手して元気をあげることができるでしょうか。

そして今回のお化け屋敷はそれだけでは完結しません。

お化けと握手をするとおばけから手紙がもらえます。その手紙には見たことのないおばけ文字が書いてあります。その手紙をどうやって読もうか悩んでるところに、幼稚園に古くから伝わる古文書がでてきます。その古文書をもとにおばけ文字を解読するとそこにミッションがかいてあります。それをクリアすると見事メダルをゲットです。

入念に準備をして、いよいよお化け屋敷スタート。

初日のルールは必ず一人で入らなければいけないこと。これはそうとう難易度高いです。真っ暗な部屋に一人ではいり得体の知れない者と握手をするというのは大人でも難易度がたかいのですが、ここで驚くべきことがおこりました。

みんな怖がりながら、ほとんどの子どもが入り口で引き返す中で、数人の子どもがおばけに話しかけました。「友達になろう!」と。そしてはじめてクリアをした女の子はおばけを怖がることなく、一人で寂しかったね、お友達になろう、あなた名前はなんていうの?と真っ暗な部屋の中をまっすぐ歩いてきました。目に涙をためながら、がんばって友達になってあげたいと暗い中を歩いてくる子もいました。

初日のクリア人数は全園児300人中10人です。

この10人の子どもたちとの会話を全部聞かせたいくらいです。おばけは子どもたちの想いと優しさに胸一杯になりました。

そして2日目は2人で挑戦してもいいということにしました。するといままで入り口で引き返していた子どもたちがぎゅっと友達の手を握り、時にお兄ちゃんやお姉ちゃんの手を握り挑戦します。

おばけの前までがんばってきたお兄ちゃんが、おばけに弟を紹介していました。弟のだれだれです友達になりにきましたと。自分も怖くて震えているのにしっかりとお兄ちゃんとしての任務を果たしている姿に胸があつくなりました。

そして友達同士の友情も。ときにいざこざもありましたが、一人よりも二人、友達のもつ力っていうのはすごいのだなということを目の当たりにした気がします。

それでも2日目のクリア人数は30人です。

そして最終日には3人ではいってもいいことにしました。そして少し電気も明るくして小さな子どももはいりやすくしました。

するといままで外で見て、入ることができなかった3歳の子どもたちも挑戦します。いままでお兄さんやお姉さんが挑戦してたお化け屋敷に勇気をだして踏み出します、そして一度クリアしたお兄さんお姉さんたちが小さな子どもの手を引いて連れてきます。

そこでみんな次々におばけと友達になりました。手紙をもらって帰って行く子どもたちの顔がとても誇らしげでした。

そして最終日には、一度クリアした子どもたちが、おばけが帰ってしまうときいて何度も会いに来ました。自分でお化け文字を書いておばけに返事を書いてくる子どもや、寂しいから会いに来たよとお手紙をもってきてくれた子どももいました。

お化け屋敷をクリアしたあとに、自分が命がけでもらったおばけからの手紙。どうしても読みたくて、いままでひらがなを書いたり読んだりできなかった子どもたちができる子にきき、自分でしらべて一生懸命手紙を読んでいる姿も印象的でした。

たかがお化け屋敷、されどお化け屋敷。

さらりと書いたのですが、本当にこの3日間お化け屋敷の中で繰り広げられたドラマには何度も胸が熱くなりました。そして行事やイベントを通して子どもたちになにかを伝えるためにはどうしたらいいかということの多くを学びました。

そして個人的には年長の子どもたちと間近で会話をしても正体を見破られないために、アメリカから輸入したボイスチェンジャーの効果に一番おどろきました。

副住職

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新学期。

| コメント(2) | 15年04月28日

4月に新学期がはじまり阿鼻叫喚だった園内もだいぶ落ち着いてきました。

お母さんがみえなくなったとたんに腹をくくったかのようにスイッチのはいる子、先生が大嫌いだといい続ける子、頑なに着替えない子もひたすら泣き続ける子、一言もしゃべらないけどしっかりとやることをこなす子、あんな子やこんな子、いいだしたらきりはないけれど、本当にいろんな子がいます。

そんな子どもたちにとって1日はやく幼稚園が安心していられる居場所になれるように職員一同がんばるわけです。

小さな子どもというのは、言葉とか約束とか理路整然とした理屈だけでは安心した顔をしてくれません、そこををつかわないで子どもたちが安心した顔ができるようになるためには、どこをつかわなければいけないのかということをよく考えます。

そして、そこでつかわなければいけないところというのは、大人と子どもだけでなく、人と人が信頼関係を築くために大切な事の本当に根幹みたいなものだなと感じます。大人になるとどうしても安心を得るために理路整然とした理屈をほしがってしまいますが、本来安心とか信頼っていうのはそういうものだけで成り立っているのではないのだと気づかされるわけです。

この先になにがあるのか、予定調和の約束が欲しいのではなくて、この瞬間、この相手、この場所に、身を委ねられるかどうか、それは大人と子どもの視点の問題であるのかもしれないけど、その視点の違いにはとても大事な事が込められているように思います。

そんなことを、涙とかよだれにまみれながら感じます。

そんな日々です。

副住職

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