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カテゴリー
新学期
| コメント(2) | 12年04月27日
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震災から1年
| コメント(1) | 12年03月11日
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後生の一大事
| コメント(2) | 12年01月25日
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2011年を振り返り。
| コメント(1) | 11年12月29日
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浄土の機縁
| コメント(1) | 11年11月17日
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2011秋彼岸法話
| コメント(2) | 11年09月28日
ある僧侶の団体が被災地にいった時に、一人の老僧がコメントを求められたそうです。 副住職 副住職
その時その老僧は一言、ああ、地震の時自分はここにいなくて本当によかった・・・思わずとつぶやいたそうです。
その発言を聞いたに周りの人たちはびっくりして、その発言を不謹慎だといったそうです。もしかすると、これが大臣かなんかの発言であれば、間違いなく辞任に追い込まれたかもしれませんし、たしかに言葉が足りなかったと思います。
しかしこの話を聞いたときに自分の中で真宗的であると感じました。
正直言えば、みんな心のどこかで思っているのです、自分でなくてよかった、自分の家族が無事でよかった。それは悪いことではありません。当然のことだと思います。
しかし、そんなことを口に出せば、被災された人たちに配慮が足りない、不謹慎だといわれてしまいますし、わざわざ口に出すことでもありませんし、テレビやメディアでも、そんなことは流しません。そして、がんばろう!日本 顔をあげて応援しよう! 負けないで! というキャッチコピーを掲げて日々東北へ向けてメッセージを送っているわけです。
しかし、本当の所、ここにいる私たちがどれだけ、今回の事を我が事として受け入れられているのか。ましてや東京にいる自分にとっては今回の震災の被害、東北の状況というのは、表面的で、情報だけを自分の中でイメージしたに過ぎないのです。
しかし、現地に足を運んで心から自分がここにいなくてよかった・・・と安堵する気持ちの裏側にあるものは、自分がそこまでに感じたその場所にいた人がいるのだということをしっかりと自分の中に認識したということになるということになると思います。その認識や自覚があってはじめて人間は痛みや悲しみや苦しみに寄り添うことができるのだと思います。
自分は日本がんばれ!というキャッチコピーに共感しますし、東北をなんとかしたいと思っていますが、きっと現地で、ここにいなくて本当によかったとつぶやいた人の半分も震災を実感できていないと思います。
感情の一部分でも自分の中で共有できなければ、本当の意味で被災者の心に寄り添うことができないのかもしれません。
だから自分とその人とどちらが東北の人の心に寄り添えるかといえば、きっとその方だと思うのです。
この話をきいてなにがいいたいかといいますと、表向きに見える言葉や、行動だけがすべてではなく、本当の意味で大切なことというのは、案外どこに落ちているかわからないということ、そして自分の中に湧いてきた感情をしっかりと受け止めるということは大切なことであるということです。
その人の発言だけをとりあげて、ああいう不謹慎な発言をしている人間は駄目だ。自分はそんなことはいわないよ!被災者のことを思って毎日がんばれ!と声をかけているからね。というのでは、本末転倒ではないかということがいいたいのです。
この方は津波の被害を見て、その壮絶さに、自分がそこにいなくて本当によかった、自分は直接被災しなかったというその御縁が自分にあったことをかみしめ、そしてその場所で多くの人がいたということを、自分のことのように心を痛めたのではないかと思います。
この話を聞いたときに、悪人正機という言葉を思い出しました。
歎異抄の3章の冒頭にでてくる一文に「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という1文があります。意訳しますと、善人が救われるというのならば、悪人が救われて当然だ。つまりは阿弥陀さまはそういう区別なくあますところなくすべての人を救うということになります。
普通はであれば、悪人が救われるなら善人が救われるなら当然だ。というならわかりますが、親鸞聖人はまったく正反対のことをいったわけです。なぜそのようなことを述べたのかというところを考えていきたいと思います。
まず悪人をイメージしてください。と言った時に多くの人は、泥棒や人殺しなどの犯罪者や、さらには人相や柄の悪い人をイメージしるのではないでしょうか。そうしますと逆に善人といえば、温厚で穏やかで、にこにこした、人をイメージするのかもしれません。
しかしそんな漠然としたイメージだけで多くの世間一般的な善や悪というイメージというのはわかっているようで、実は曖昧で確実な基準というのはないわけです。
最近節電ということがいわれていますが、ある人がエアコンをとめて汗だくでテレビをみながら、エアコンの中で涼しそうにしている友人に、エアコンを止めるように強要したそうです。
自分は汗だくで節電しているのに、なんでおまえだけ涼しげな顔をしているんだといったそうです。しかしその話、実は本当のところをいいますとテレビの消費電力というのは思いの外大きいそうです。ですので、汗だくでテレビを見ているよりも、涼しげに本を読んでいる方がはるかに節電になるそうです。
これは例え話ですが、このように、いいことをしようという気持ちは大事ですが、自分の想像してない部分や、本当の所で、その行動は必ずしもいい結果に結びついていない場合というのもあるのです。
親鸞聖人も歎異抄の後序の中で善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。と述べています、つまりは善と悪このふたつはなにがよくてわるいかは自分の知り及ぶことではないということです。つまりは私たちのする善悪の区別や判断などあてにならないし、絶対でないということを述べているわけです。
現代は情報社会です、自分もそうですが、テレビをみていて、あいつは悪い。こいつはいいなど、だれかがだれかを判断して、あたかもその価値観があたりまえであるかのように蔓延しています。自分はしっかりしているから大丈夫だ。自分でしっかり判断してる。
自分には関係ないとおもっていても価値観までも刷り込まれてしまう時代です。いつその中に自分がはいっているかもわからない。そして知らないところでたくさんの犠牲をしいているかもしれない、大きな勘違いで悲しむ人を生み出しているかもしれないという事実がここにはあるわけです。
阿弥陀仏はそういう人間の勝手につけた善とか悪とかそのような区別など一切関係なくもっと大きな目で私たちをみてくれているわけです。そして人間は自分の思うとおりにいいことやわるいことをすることすらもできないものだといいます。そしてだからこそすべての人を余すことなく救うと述べているわけです。
これを頭で理解するというのはなかなか難しいことです。
それはなぜかといえば、一番見えにくく一番近くにいて一番遠い存在が自分であり、それが人間だからです。
一番はじめに、悪人をイメージしてください。といいましたが、そこでまず自分も顔を思い浮かべた人はいないと思います。それくらい人間というのは自分以外のことが見えていないわけです。自分はあんな人間ではない、自分がそんなことをするはずがない。さらには自分の身にそんなことが降りかかるはずがないとたかをくくって生きているものです。
清沢満之というかたの言葉で「宗教は自覚である」という言葉が少し前まで門前の掲示板にはってありましたが、真宗の入り口、さらに宗教の入り口というのはまずは自分自身に目を向けることですです。自らの身をただしい目で見て凡夫であることを自覚をするということが大切なのではないかと思います。さらにいえばこの自覚というのは、目の前にある事実を他人事としないで自分の中にしっかりと落して考えるということでないかと思うわけです。
自分の中に湧いた気持ちをしっかりと目を背けずに向き合うこと、そして素直に自分をしっかりと自覚するということは真宗においてはとても大事な事です。
話は初めに戻りますが、この老僧の一言「ここにいなくてよかった」と湧いてきた気持ちをしっかりと受け止めて、そんなことを感じてしまう自分だからこそ、救われるべき存在なのだ。と一歩足を突っ込んで考えるのが真宗の大切な部分であるわけです。
それが真宗でいう聞法の入り口であり自力を離れ他力に依るということなのではないかと思います。その自力の無力さをしり他力を知ることを回心といいます。
その深い自覚を感じ回心した時に初めて自力いうものの無力さを痛感するわけです。そして本当に正しいことなんていうのは自分の手の終えないところにあるかもしれないということを知ることで、謙虚に、そして日々を寛容にいきることができるのではないかと思います
そして自分の手に負えないことだからこそ、 救われるしかない自分に深く気付き、そこで初めてに阿弥陀仏の本願に灯が灯るわけです、そしてそう感じた自分の中から、お念仏があとから自然と口をついてでるわけです。
南無阿弥陀仏
このようなわが身を一切おまかせいたします。といういみです。わが身をおまかせして目の前の現実に深く手を合わせしっかりとそれを受け止めて生きていく。その心の中、その姿の中に阿弥陀様がいるのではないかと思うわけです。
今回このお彼岸という日を機縁に自分自身も改めて見つめ直す機会をいただければと思います。とてもこの時間の中には語りつくせないものがあります。そんなとても難しいテーマでお話をさせていただき自分自身まだしっかりと受け止めきれていない部分もあり、たくさんの疑問も抱える中でわかりにくく伝わりきらなかった点もたくさんあったかもしれません。最後まできいていただきありがとうございました。
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インド旅2001 総括
| コメント(2) | 11年08月27日
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小鳥のお墓。
| コメント(2) | 11年07月02日
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宗教の本分。
| コメント(2) | 11年05月12日
そこで、相手にも言い分はあるし、なんでその人がそういうことをいうか考えてごらんよ。自分の中にも落ち度はないかい?とか、一方的に理不尽だというけど、自分も同じようなことをしたことはないかい?とか言おうものなら、あいつなんだよ、全然自分のことわかってくれない。わかったような顔して腹が立つ。言われるのが落ちだろうと思います。
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23年お彼岸 震災に際して
| コメント(1) | 11年03月31日
先日大きな地震がありました。東北の方では甚大な被害が出ました。今なおたくさんの方がご苦労をされています。毎日報道の方をみていますと、刻一刻と、なくなられた方、行方不明の方の数が増えていきます。
それをみていて、その数字を見ながら被害の大きさを感じるわけですが、日に日にその数字を眺めるうちに、数字だけに注目してしまい、その数字の一人一人に家族がいて、子どもがいて、親がいるということを忘れてはいけないと思いました、そしてそれを思うと、とても身につまされるような思いが致します。
幸い関東首都圏での被害は東北ほど甚大ではありませんでした。その中で、ここ数日自分にできることはなんだろうかということを考えました。
そこで感じたのは、物理的な支援、義援金を含めた物資の支援ももちろんですが、仏教や浄土真宗を通していま自分ができることの1つに、我が身をしらせていただくということがあるのではないかと思います。
我が身を知るというのは、仏教において、真宗においてもとても大切なことです。仏法は鏡に例えられます、人間は時に自分の顔を鏡で照らし、いま自分がどんな顔をしているのか、どんな姿でいるのか、どんな行動をしているのか、ちゃんと見つめることで、正しい道を進んでいけるのだと思います。
1つこんな逸話があります。極楽の箸、地獄の箸という話です。
極楽でも地獄でも、食事の時には1mもある長い箸を使うそうです。1mもある箸ですから、自分で自分の口に食べ物を運ぶのは難しいわけです。そこで、極楽ではその箸をつかって、向かい側にいる人の口に食べ物を運び、お互いに食べさせあうそうです。なのでいつもお腹も心も満たされている。一方地獄では、我先にと、自分の口に運ぼうとするので、ポロポロこぼしてしまい、いつも空腹で、心も満たされないという話です。
いま被災地では、少ない食べ物をお年寄りや、子どもたちに先にと、譲り合い、みんなが協力をして、みんなでがんばろうとしています。あの地獄のような状況において、そこにいる方々の心の中にとても強いものを感じました。
一方この首都圏においては、我先に必要以上のものを買い占めるということが起こっているようです。まだ停電もありますが、電気もガスも食べ物も切迫しているわけではないところでこのようなことが起こる。どちらが地獄でどちらが極楽なのかわからないと思います。
もちろん生活に必要なもの、最低限必要なものを買い求める気持ちはわかります。それは決して悪いことではないと思います。
しかしこういう時だからこそ、仏法を通して我が身をしるということ、その中から行動し、考え発言するということがいま求められているような気がします。
そもそも、このお彼岸という日は、この現世を此岸、覚りの世界を彼岸と表すわけですが、この太陽が真東から昇り真西(極楽浄土の方向)に沈むその日に、覚りの世界を目指し、仏法を聞かせていただくという意味があるわけです。
その彼岸に至る中道の教えの中には、六波羅蜜(ろくはらみつ)というものがあります。簡単に言いますと、彼岸に至る為の、6つの実践徳目のことを指します。
その6つというのは、
布施(ふせ)
持戒(じかい)
忍辱(にんにく)
精進(しょうじん)
禅定(ぜんじょう)
智恵(ちえ)
となるわけですが、これを知識として自分の中にただ書き留めておくだけでなく、こういう時だからこそ、これを自分の中に照らし合わせて行動することが大切であるのではないかと思います。
例えば、
布施(義援金、救済物資を被災者に届けよう)
持戒(こういうときだからこそ、自らの生活を律しよう)
忍辱(不自由、不便に文句を言わないですごそう)
精進(自分が今出来ることを粛々とこなそう)
禅定(まず心を落ち着けよう)
智恵(デマに惑わされず正しい情報を信じよう)
これは自分の中での解釈ですが、それぞれがこの6つに自分の生活や行動を照らし合わせ、我が事としてとらえるということが大事なのではないかと思います。
そしてもう一つ、日に日に増える数字だけを見ていますと、その数字1つ1つの命が自分とは関係ないことのように感じてしまうことがありますが「命」についても同様に、この震災を遠いところのニュースとして他人事にせずに、自分の中にしっかりと受け止めるということも大事なのだと思います。
白骨の御文というのがあります。この御文は蓮如上人の書かれたものです。
この御文の背景は、
山科本願寺(やましなほんがんじ)の近くに青木民部(みんぶ)という下級武士がいました。十七歳の娘と、身分の高い武家との間に縁談が調ったので、民部は、喜んで先祖伝来の武具を売り払い、嫁入り道具を揃えたのです。ところが、いよいよ挙式という日に、娘が急病で亡くなってしまいます。火葬の後、白骨を納めて帰った民部は、「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か」と悲嘆にくれ、五十一歳で急逝。度重なる無常に、民部の妻も翌日、三十七歳で愁い死にしてしまいました。
その二日後、山科本願寺を財施した海老名五郎左衛門(えびなごろうざえもん)の十七歳になる娘もまた、急病で亡くなりました。葬儀の後、山科本願寺へ参詣した五郎左衛門は、蓮如上人に、無常についてご勧化をお願いします。すでに青木家の悲劇を聞いておられた上人は、願いを聞き入れられ、「白骨の御文章」を著されたのです。
(インターネットネットより引用)
そして本文はこちらです。
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
この最後の一文、後生の一大事を心にかけるというのは、いう変えれば我が身を知るということであり、それは仏法を自分の問題として味わい。「諸行無常」の道理を他人事のように思わず我が事として受け止めるとだと思います。
今回の被災において、被災にあわれた方が不運であったというのではなく、いまここに生きている私たちの日常こそが、奇跡的な御縁と、目に見えないたくさんの奇跡の上になりたっているということなのだと思います。それをしっかりと受け止め、この一瞬をしっかりと意識して味わいながら生きなさいということです。
人間は自分にはどうしようもないものの中に生かされている、本当にいろいろな縁や願いの中に生かされている我が身に気づけるわけです、そこに立ち、はじめて、お腹の中から感謝の気持ち、そして謙虚な気持ちというものがわいてくる。
そしてその気持ちを「南無阿弥陀仏」という声にして口に出すわけです。
これが後生の一大事を心にかけ念仏申すということだと思います。
いまこういう時だからこそ、お念仏の心をもって日々を過ごし、仏法に我が身を照らして行動することが大切なのではないかと感じています。
そして東北の方々の一日も早い復興と、こころの平穏を願いたいと思います。




