寂円寺通信寂円寺通信
寂円寺通信

コミュニケーション

| コメント(1) | 10年06月24日

小さい子どもは言葉を意味で理解するよりも、その声のトーンや相手の表情や空気で、その言葉がいいものか悪いものかを自分の中に落とし込む割合の方が大きいといいます。

笑顔でこら!と言えばにこにこするけど、低く厳しい顔でよくやった!といってもその受け取り方は正反対なわけです。

それが年をとるにつれ、言葉や理屈が先行して、頭で頭で自分の中になにかを落とし込もうとしたり、相手の心も顔も目も空気もみないで、言葉尻だけをとらえて意味を理解をしようとするようになってしまうような気がします。

言葉というのは、思っているよりも力があるけど、思っているよりも不確かで曖昧でもある。

言葉だけにとらわれるのではなく、大事なのはそれを発する相手をよくみることであり感じることだと思います。

社会に出ると、これがすごくうまい人と全くできない人の差が顕著だなぁと感じることがあります。。これがうまい人というのは、一様にコミュニケーションがうまくて、相手との距離の測り方がうまいなと感じます。

 

 

- コメントを投稿する -

走る。

| コメント(0) | 10年05月19日

唐突ですが、こうみえて、自分は昔から足が速いのです。それだけはちょっと人に胸を張れるところでもあったわけです。

なのでたまに全力疾走をしたくなります。最近夜走りにいっているので、近くの公園で、短距離走を全力でやってみました。

たぶん、いまもそれなりに速いと思います。日本中の30代男子を全員集めて走っても速いと思われる部類に入れると思います。

でも、面白いなと思ったのは、手の振りやフォームも自分ではまったく変わってないと思ってるし、ぐんぐんスピードが上がってくる感じも変わんないのに、でも最高速度になった時に、自分の頭の中にある速さが、体感速度についてきてなくて、そこのズレがあからさまなわけです。

いくら腕を振っても足をあげても、違う日にチャレンジしても、頭と体がぴったりくるようにスピードにのれなくて、なんかむしょうに気持ち悪いのです。例えるならば、エスカレータを逆に向かってダッシュするようなちぐはぐさが残るのです。

頭はおもしろいもので、一番早かった時の感覚を鮮明に覚えていて、あのぐんぐんスピードにのってきて自分の最高がここだ!とがつんとくる感じを覚えているようです。

ちょっとそのちぐはぐさをなんとかしてやろうと思って、最近毎晩走っています。

それでなにがかわるわけでもないけれど、でもきっとそのちぐはぐさが消えて、ぴたっと思い通りのスピードにもどれたらきっと気分がいいだろうなと思います。

なんのおちもありませんが、そんなことを想う今日この頃です。

- コメントを投稿する -

成長のスピード

| コメント(2) | 10年05月06日

 

幼稚園では新学期がはじまり、はやくも1ヶ月がすぎました。

子どもたちも生活にだいぶ慣れてきたようで、はじめは毎日泣きながら来ていた子どもも、もう1人でさっさと教室に入り1人で着替えて外に遊びに行きます。

本当に、いままでできないことが、どんどんできるようになる。この成長のスピードには毎年毎年驚かされます。そして毎年、自分はこの1年でなにができるようになったんだろうと自問自答して、反省するわけです。

そんな子どもたちですが、おかえりの時間に、お母さんがお迎えに来た時にみせるふと力の抜けた表情みると、ああ1日頑張っていたんだなぁとしみじみと感じるわけです。

きっとGWもあけてすこしまた泣いてる子どもたちも増えるかもしれませんが、これからが夏本番、たくさん遊んで、幼稚園でしかできない経験をたくさんさせてあげられればと思います。

副住職

 

 

 

- コメントを投稿する -

学ぶ

| コメント(1) | 10年04月05日

 

最後に皆さんに聞いていただきたいことがあります。それは学校がなくなっても、皆さんには学び続けてほしいということです。勉強は続けていただきたい。学ぶ情熱があるかぎり。

平賀キートンという人の言葉です。

人間は知りたいという心がある限り、どんなところでも学ぶことができる。

この言葉にすごく背中を押されることがあります。

いうなれば、学ぶということの原点は、どこまでも知りたいと思うものと出会うというところにあるんだろうと思います。

喉の渇いてない馬を水飲み場に連れて行っても水はなまないというけど、じゃあ馬に水を飲ませるためにしなきゃいけないのは、喉を乾かせることであり、枯渇させることであわけで。

なにかを育んでいくということは、なにかを与えることでもあると同時に枯渇させることでもあるのかもしれないなと思うことがあります。

また自分自身でも、自分が枯渇できる場所を選んで足をだす場所を選んでいくことも大切なのかもしれないと思いました。

副住職

- コメントを投稿する -

お彼岸を終えて。

| コメント(2) | 10年03月28日

暑さ寒さも彼岸までとはいいますが、境内のしだれ桜もお彼岸の陽気で花をつけました。しかし寒の戻りでしょうか、またここ数日寒い日が続いています。

今年もお彼岸中にはたくさんの方にお参りをいただき、お話しする機会をいただきありがとうございました。今回お彼岸の法話の中で、真宗における法要の意味、またお念仏ということですこしお話しをさせていただきましたが、なかなか限られた時間の中でのお話しですので、伝わりづらく、わかりづらいことがあったかと思います。

真宗における法要の意味、またお念仏のありかた、というのは自分自身これからも、まだまだ学んで体験をしていかなければならないことだなと思っています。また今後も自分なりの言葉で話をしていければと思います。

またお時間ありましたら、いつでもお話しをする機会をいただきたいと思っていますので、お気軽にお声かけ下さい。

副住職

- コメントを投稿する -

原因と結果

| コメント(0) | 10年03月03日

 

自分が考えた末に出した答えや行動で必ずしも物事が好転するとは限らなくて、逆になにも考えずにした行動や言葉で何かが劇的に回りだすことがあって。

自分が迷った末にだした結論が、誰かにとっては最悪な答えであることもあれば、なにも考えずに発した言葉が誰かの救いになることがあるわけで。

自分が正しいと思ったことも、側面にしかすぎなくて、自分の発する言葉はいつだって、しったかぶりの、向う見ずだったりする。

必ずしも、結果につながる要因は自分からうまれたものではないことの方が多いのかも。なんて深々と冷え込む夜道を歩きながら思って。

はて。一体いままで、自分自身の力だけで、なにかを変えられたことなんかあるんだろうか。と思って、もしかしていままで、そんなことは何もなかったのかもしれないと思ったら。

なんかものすごく、自分は自分で、思ってるより無力なのかもなと思って、そんなこと言ったら、なんにもできないし、がんばる意味なんてあるのかなと考える。

なにかを発言することも、結局は独りよがりなのかもとか自虐的に思ったころに、心が反作用して、それって、考えようによっちゃすごく楽なことなのかもしれないというところで落ち着く。

好転するかしないかわかんないんだから、もうそんなこと気にして行動しなくてもいいのかもって思って、そこに出た結果は、やり直したとしても同じ結果が出るかもわかんないわけで、結果はそこにあるものがすべてで。

だから、なんか。

それで失ったものは、失うべくして失ったもので、いまあるものは、得るべくして得たもので。

大切なものを、がんばれば維持し続けられるかといえばそうじゃなくて。失ったものはもう手に入らないかといえばそれもそうじゃないのかもしれなくて。

なんか。

思うに、先の先を見ようとしてきて、物事に関わる要因を、側面的で断片的にならないように、意識して意識して、がんばってがんばって視野を広げようとしてきたつもりだけど、なんか最近、これは自分の手に負えることじゃないかもって思うことがある。

目の前のたった一つのこと。

なんでもいい。

大きなことも小さなことも。

ほんとに自分には思いもよらない要因が重なってそこにあると、最近本当に心からそう思うことがあります。

 

副住職

 

- コメントを投稿する -

発表会

| コメント(2) | 10年02月13日

 

この時期になると毎年、幼稚園では発表会という行事があります。

先日、その行事が無事に終わりました。そして毎年、発表会という行事を通して思うのは、なんでこんなに子どもたちの唄や合奏が心に響くのだろうかということです。

子どもの歌を聞いていていますと、まだ幼稚園の子どもですから、お世辞にも音程がきれいにとれてるわけでもなく、きれいに全員がそろっているわけでもないんですが、自分だけでなく、観客みんなが引き込まれてしまうほど、心に響きます。

それはなんでだろうなぁと考えていて、

もしかしたら、それはきっと、子どもたちが、うまく歌おうとか魅せてやろうとか、そんな気持ちがさらさらなくて、自分が楽しんで演じて、楽しんで歌って、歌いたいように声をだして、歌いたいように歌ってるからなのかもしれないと思いました。

そして、そのまっすぐな姿勢や姿に、知らず知らずのうちにそうじゃなくなってる自分のなかにあるギャップが摩擦を生じさせて、それが心の中に波紋みたいに広がるのかもしれません。

これからこの子たちが大きくなっていく中で、いろんな壁にぶつかったりして、そのたびに、自分を守る術を覚えたり、世渡りする技術を身につけていったり、隣の子との差や、他人の中にあって自分の中にないものとか、自分のメリットとデメリットと向き合う中で、こうやって歌が歌えなくなってしまうのかもしれないと思ったら、

これから少しづつ薄れていってしまうであろう、その感覚、そのむき出しの感情をこうやってビリビリと感じられる距離にいられるということは本当にありがたいことだと思いました。

そして、こうやって歌が歌える頃がだれにもあったのかもしれないなぁと思ったら、すくなくとも今のこの時期には、こうやっておもいっきり歌を歌わせてあげられる幼稚園でありたいと思いました。

副住職

- コメントを投稿する -

お念仏と浄土

| コメント(4) | 10年01月22日

五木寛之さんの「親鸞」という本の中に、

「そのこころは心ではなく情なのだ。浄土は情土なのだ、唯識で心はとけるが、情はときあかすことはできぬ」

という言葉がありました。

それを読んで感じたことですが、まず、浄土というところが、どういう世界なのかということは、阿弥陀経の中に、事細かに記されています。

抜粋ですが、例えば、

極楽国土には、七重の欄楯(欄干のような石垣)、七重の羅網(とりあみ)、七重の行樹(並木)があって、みな、これ四宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶)であまねく取り囲むとか。

極楽国土には、七宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶・赤真珠・碼碯・琥珀)の池がある。八功徳(澄浄・清冷・甘美・軽軟・潤沢・安和・飢渇を除く・健康増進)の水が、その中に充満している。池の底には純ら黄金の砂が布かれているとか。

天の音楽をかなで、黄金が地をなしている。昼夜六時(一日を昼夜に二分、それぞれをまた三分して、六時となる)に、曼陀羅華を雨降らす。その国の民衆は、常に清々しい朝に、おのおの花を盛る器をつかって、もろもろの妙華を盛り、他方の十万億の仏を供養し、昼の休息をもって、本国に還到し、ご飯をたべ、座禅の眠気を覚ますためゆきつもどりつする。

など一部抜粋ですが、具体的に極楽の様子が説かれているわけです。

いままで、自分の中では、極楽というところは、いいところなんだろうなぁ。だからお念仏を唱えることで、極楽にいくことができる。と考えていたことがあります。どうせ死んだあとにいくところがあるならいいところの方がいいなぁと。じゃあ、なまんだぶなまんだぶ。と。

でも思うに、それじゃお念仏は、極楽に行くための一種の方法にしかすぎないわけで、経典を読んで、頭で浄土を思い描いている限り、お念仏は方法論に陥りやすくて、それじゃ、本末転倒になってしまうのかもしれないと感じることがあります。

正直言えば、もしお念仏が方法論だとしたら、いまの現代において、お念仏したら極楽にいけますよ!といって極楽にいくことを心から望んでお念仏を唱えられる人はどれだけいるでしょうか、自分もそうですが、極楽なんて本当にあるんだろうか、そもそもお念仏したらそこにいける根拠なんてあるんだろうか、とか、阿弥陀仏とかってそもそもなんなんだ。と考えてしまうのが普通じゃないかと思います。

しかし真宗において大切な心は、その疑いの中にあるのかもしれないと思うわけです、その疑いというのは、頭のどこかでは、そういうものがあればいい。とか、すべてをすくってくれる存在がいてくれればありがたいけど・・・もしかしたらそうだったら・・・と気持ちも含まれているように感じるわけです。

法要や、通夜葬儀で、遺族の方とお話をする時に感じるのは、極楽の様子や、極楽がどこにあるかとか、そんなことや、もっといえば、自分が念仏をすればそこにいけるかどうか、ということはさておき、今、亡くなられた方が、極楽というところに行って仏様になっていると思えることに、安心することができるのかもしれないと思うわけです。

また、自分がどうしょうもなく苦しい時に、神頼みなんて言葉もありますが、そこに阿弥陀さんがいるからとか、もっといえば救ってくれる人がいるから、助けてくれ。というお願をするのではなく、そういう相手を通り越して、救ってくれるとか、救ってくれないとか、阿弥陀さんがいるとかいないとかに、関わらず、だれでもいいからなんとかしてほしいとか、思うことがあるわけです。

そう思った時に、冒頭の浄土は情土とはうまいことをいうなぁとおもったわけです。

大切な人がいいところへ行っていてほしい。とか、自分が苦しい時に、だれでもいいから何とかしてくれ!とか。そういう人間の根本的な心の中に、浄土というものの本当の姿があり、それを恋う気持ちをお念仏という形であらわすのかもしれないと思うわけです。

大事なのは浄土そのものなのではなくて、人が浄土を恋う気持ちによりそうことであって、救いを恋う気持ちによりそえなければ理屈ではない浄土というのはわからないのかもしれないと思うわけです。

また浄土を恋うときにそこにある。人間の本当の部分、なんで人間は極楽浄土を恋焦がれるのか、そしてそこには、浄土を恋わなければならない自分がいるという事実があるということに気づかされることが大切なのではないかと思います。

それを簡単に噛み砕いてみると、やはり真宗は山からおりた宗派なんだなぁとしみじみ感じるとともに、非僧非俗というのは、やはり簡単なようで難しいなと感じます。つい理屈や頭で、経典を理解してしようとしてしまいますが、それではわからないことがまだまだたくさんあるように感じます。

そして最後は目の前にいる人と、一緒に笑って一緒に泣きながら、その心にまっすぐによりそって生きていくことが大切なのではないかと感じるわけです。

副住職

- コメントを投稿する -

新年あけましておめでとうございます。

| コメント(2) | 10年01月04日

 


新年あけましておめでとうございます。
昨年もこのブログを読んでいただいてありがとうございます。

何人かの方に声をかけていただき、また直接お話しする機会がとれて嬉しく思っています。

今年も肩の力を抜いて、感じたことを感じたままにゆるりと更新していきたいと思っています。
またこれをきっかけに、たくさんの方とお話しができたらと思っています。

よろしくお願いいたします。

さて、先日新年早々に、上野動物園にいってきました。
まだ3日だというのに、たくさんの人たちがきていて、賑わっていました。

そこで感じたんですが、よく白い鳩が平和の象徴だといいますが、なんとなく自分にとっては、鳩よりも、象を見ると平和だなぁと感じることがあります。

象の檻の前でたくさんの子どもがへばりついて、親子で象を見ている光景をみてると、日本は平和だなぁと感じるわけです。

昔国語の教科書にあったトンキーの話しがの影響を少なからず受けているのかもしれないですね。

そして、やっぱり平和が一番だねと口に出して思ったのは、やっぱり平和が一番と、10年前にいった自分と、やっぱ平和が一番だという今の自分は同じ言葉を発していても全然違っていて。

この10年の中で、いろんな想いや経験をして、平和の意味も、多面性も、10年前よりはすこしくらい見えるようになってきて、平和というものにのせている意味も想いもぜんぜん別物だと思います。

でも言葉にすると10年前となんらかわらない。平和が一番だね。になるわけで。

いろんなものが一周して同じところにもどってくる感覚というのはこういうことなのかもしれないなぁと思ったわけです。

そんなことを考えていたら、ふと岡本太郎さんが、晩年、やっと子どものころに描いた絵に近づいてきたなぁといっていたということを思い出しました。

そしてそんなことを考えながら、ツキノワ熊のところにくると、なぜかここでいつも、動物園の動物は幸せかなのか幸せじゃないのか?という疑問が思い浮かぶわけです。

そしてそれをいつもペンギンのあたりまでそれをいつも考えて歩くんですが。いつも違う答えが浮かんでは消え、何度この疑問を考えたのかわかりませんが、言葉にするのは難しいのですが、

今回思ったのは、檻の中にいる動物は、きっと幸せだとか、不幸せだとかないんだろうと思いました。

いうなれば幸せだし、いうなれば不幸せなのかもしれません。

草原を走り回ってるほうが幸せだよと思うのはあくまで、自分の想いにすぎなくて。幸せっていう基準が考える人間の数だけ存在する以上、その質問に明確な答えはないのかもしれません。

そして、そういうことをうっかりにでも、考えて、Aが幸せなんだろうか、それともBの方が幸せなんだろうか、と考えてしまう行為自体が人間が苦しみにいかにとらわれているかというなによりの証拠なのかもしれないなぁと・・・Aを離れBを離れることが中道か・・・と。うまく伝えられませんが、

そんなことを白クマの顔をみながら思ったわけです。

それと、余談ですが、いま上野動物園にはパンダがいないんですが、年内にはパンダがもどってくるかもしれないそうです!パンダのいない上野動物園はなんか、みかんののっていない鏡餅のような気がしてしまって、上野動物園にはパンダが戻ってきて、やっとなんかしっくりくる感じがします。

さてそんなこんなで2010年が始まります。

今年も皆様にとっていい歳でありますように。

合掌

 

副住職

- コメントを投稿する -

年の瀬に。

| コメント(2) | 09年12月24日

 

年の瀬、街もなんとなく、そわそわしているように感じます。

 

この時期に、鼻からつめたい空気を一杯に吸い込んで、身体の隅々まで、その冷たい空気が流れ込んでくると、身体が内側からぽかぽかあったかくなるような感じがします。きっと内臓が冷やされてたまるかいと思ってがんばるからなのかもしれないですね。

 

自分の意識とは別のところに、命というのはあるんだなぁとこういうときにふと感じることがあります。

 

さてこの時期になりますと、お別れの挨拶が、「さようなら」から「よいおとしを」に変わります。自分で、そういう挨拶をしているとふと、別れるときに次に、この人とは、いつ会うんだろうということを考えてる自分に気づかされます。いつもはそんなこと考えないのですが、この時期だけは、すこし相手に置く意識が特別な気がします。

 

よいおとしを。

 

そこには、いつもよりもすこし多くの感謝の気持ちが込められている気がします。この時期の特別な挨拶と、その心持ちになんか、やはり日本のこういう文化はいいなぁと思いました。

 

さて今年はあと何人によいおとしを、というのでしょうか。

 

みなさま今年もお世話になりました。

来年もよろしくお願いいたします。

 

よいおとしを。

 

- コメントを投稿する -

ページ先頭に戻る