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原因と結果
| コメント(0) | 10年03月03日
自分が考えた末に出した答えや行動で必ずしも物事が好転するとは限らなくて、逆になにも考えずにした行動や言葉で何かが劇的に回りだすことがあって。
自分が迷った末にだした結論が、誰かにとっては最悪な答えであることもあれば、なにも考えずに発した言葉が誰かの救いになることがあるわけで。
自分が正しいと思ったことも、側面にしかすぎなくて、自分の発する言葉はいつだって、しったかぶりの、向う見ずだったりする。
必ずしも、結果につながる要因は自分からうまれたものではないことの方が多いのかも。なんて深々と冷え込む夜道を歩きながら思って。
はて。一体いままで、自分自身の力だけで、なにかを変えられたことなんかあるんだろうか。と思って、もしかしていままで、そんなことは何もなかったのかもしれないと思ったら。
なんかものすごく、自分は自分で、思ってるより無力なのかもなと思って、そんなこと言ったら、なんにもできないし、がんばる意味なんてあるのかなと考える。
なにかを発言することも、結局は独りよがりなのかもとか自虐的に思ったころに、心が反作用して、それって、考えようによっちゃすごく楽なことなのかもしれないというところで落ち着く。
好転するかしないかわかんないんだから、もうそんなこと気にして行動しなくてもいいのかもって思って、そこに出た結果は、やり直したとしても同じ結果が出るかもわかんないわけで、結果はそこにあるものがすべてで。
だから、なんか。
それで失ったものは、失うべくして失ったもので、いまあるものは、得るべくして得たもので。
大切なものを、がんばれば維持し続けられるかといえばそうじゃなくて。失ったものはもう手に入らないかといえばそれもそうじゃないのかもしれなくて。
なんか。
思うに、先の先を見ようとしてきて、物事に関わる要因を、側面的で断片的にならないように、意識して意識して、がんばってがんばって視野を広げようとしてきたつもりだけど、なんか最近、これは自分の手に負えることじゃないかもって思うことがある。
目の前のたった一つのこと。
なんでもいい。
大きなことも小さなことも。
ほんとに自分には思いもよらない要因が重なってそこにあると、最近本当に心からそう思うことがあります。
副住職
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発表会
| コメント(2) | 10年02月13日
この時期になると毎年、幼稚園では発表会という行事があります。
先日、その行事が無事に終わりました。そして毎年、発表会という行事を通して思うのは、なんでこんなに子どもたちの唄や合奏が心に響くのだろうかということです。
子どもの歌を聞いていていますと、まだ幼稚園の子どもですから、お世辞にも音程がきれいにとれてるわけでもなく、きれいに全員がそろっているわけでもないんですが、自分だけでなく、観客みんなが引き込まれてしまうほど、心に響きます。
それはなんでだろうなぁと考えていて、
もしかしたら、それはきっと、子どもたちが、うまく歌おうとか魅せてやろうとか、そんな気持ちがさらさらなくて、自分が楽しんで演じて、楽しんで歌って、歌いたいように声をだして、歌いたいように歌ってるからなのかもしれないと思いました。
そして、そのまっすぐな姿勢や姿に、知らず知らずのうちにそうじゃなくなってる自分のなかにあるギャップが摩擦を生じさせて、それが心の中に波紋みたいに広がるのかもしれません。
これからこの子たちが大きくなっていく中で、いろんな壁にぶつかったりして、そのたびに、自分を守る術を覚えたり、世渡りする技術を身につけていったり、隣の子との差や、他人の中にあって自分の中にないものとか、自分のメリットとデメリットと向き合う中で、こうやって歌が歌えなくなってしまうのかもしれないと思ったら、
これから少しづつ薄れていってしまうであろう、その感覚、そのむき出しの感情をこうやってビリビリと感じられる距離にいられるということは本当にありがたいことだと思いました。
そして、こうやって歌が歌える頃がだれにもあったのかもしれないなぁと思ったら、すくなくとも今のこの時期には、こうやっておもいっきり歌を歌わせてあげられる幼稚園でありたいと思いました。
副住職
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お念仏と浄土
| コメント(4) | 10年01月22日
五木寛之さんの「親鸞」という本の中に、
「そのこころは心ではなく情なのだ。浄土は情土なのだ、唯識で心はとけるが、情はときあかすことはできぬ」
という言葉がありました。
それを読んで感じたことですが、まず、浄土というところが、どういう世界なのかということは、阿弥陀経の中に、事細かに記されています。
抜粋ですが、例えば、
極楽国土には、七重の欄楯(欄干のような石垣)、七重の羅網(とりあみ)、七重の行樹(並木)があって、みな、これ四宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶)であまねく取り囲むとか。
極楽国土には、七宝(金・銀・青玉=瑠璃・水晶・赤真珠・碼碯・琥珀)の池がある。八功徳(澄浄・清冷・甘美・軽軟・潤沢・安和・飢渇を除く・健康増進)の水が、その中に充満している。池の底には純ら黄金の砂が布かれているとか。
天の音楽をかなで、黄金が地をなしている。昼夜六時(一日を昼夜に二分、それぞれをまた三分して、六時となる)に、曼陀羅華を雨降らす。その国の民衆は、常に清々しい朝に、おのおの花を盛る器をつかって、もろもろの妙華を盛り、他方の十万億の仏を供養し、昼の休息をもって、本国に還到し、ご飯をたべ、座禅の眠気を覚ますためゆきつもどりつする。
など一部抜粋ですが、具体的に極楽の様子が説かれているわけです。
いままで、自分の中では、極楽というところは、いいところなんだろうなぁ。だからお念仏を唱えることで、極楽にいくことができる。と考えていたことがあります。どうせ死んだあとにいくところがあるならいいところの方がいいなぁと。じゃあ、なまんだぶなまんだぶ。と。
でも思うに、それじゃお念仏は、極楽に行くための一種の方法にしかすぎないわけで、経典を読んで、頭で浄土を思い描いている限り、お念仏は方法論に陥りやすくて、それじゃ、本末転倒になってしまうのかもしれないと感じることがあります。
正直言えば、もしお念仏が方法論だとしたら、いまの現代において、お念仏したら極楽にいけますよ!といって極楽にいくことを心から望んでお念仏を唱えられる人はどれだけいるでしょうか、自分もそうですが、極楽なんて本当にあるんだろうか、そもそもお念仏したらそこにいける根拠なんてあるんだろうか、とか、阿弥陀仏とかってそもそもなんなんだ。と考えてしまうのが普通じゃないかと思います。
しかし真宗において大切な心は、その疑いの中にあるのかもしれないと思うわけです、その疑いというのは、頭のどこかでは、そういうものがあればいい。とか、すべてをすくってくれる存在がいてくれればありがたいけど・・・もしかしたらそうだったら・・・と気持ちも含まれているように感じるわけです。
法要や、通夜葬儀で、遺族の方とお話をする時に感じるのは、極楽の様子や、極楽がどこにあるかとか、そんなことや、もっといえば、自分が念仏をすればそこにいけるかどうか、ということはさておき、今、亡くなられた方が、極楽というところに行って仏様になっていると思えることに、安心することができるのかもしれないと思うわけです。
また、自分がどうしょうもなく苦しい時に、神頼みなんて言葉もありますが、そこに阿弥陀さんがいるからとか、もっといえば救ってくれる人がいるから、助けてくれ。というお願をするのではなく、そういう相手を通り越して、救ってくれるとか、救ってくれないとか、阿弥陀さんがいるとかいないとかに、関わらず、だれでもいいからなんとかしてほしいとか、思うことがあるわけです。
そう思った時に、冒頭の浄土は情土とはうまいことをいうなぁとおもったわけです。
大切な人がいいところへ行っていてほしい。とか、自分が苦しい時に、だれでもいいから何とかしてくれ!とか。そういう人間の根本的な心の中に、浄土というものの本当の姿があり、それを恋う気持ちをお念仏という形であらわすのかもしれないと思うわけです。
大事なのは浄土そのものなのではなくて、人が浄土を恋う気持ちによりそうことであって、救いを恋う気持ちによりそえなければ理屈ではない浄土というのはわからないのかもしれないと思うわけです。
また浄土を恋うときにそこにある。人間の本当の部分、なんで人間は極楽浄土を恋焦がれるのか、そしてそこには、浄土を恋わなければならない自分がいるという事実があるということに気づかされることが大切なのではないかと思います。
それを簡単に噛み砕いてみると、やはり真宗は山からおりた宗派なんだなぁとしみじみ感じるとともに、非僧非俗というのは、やはり簡単なようで難しいなと感じます。つい理屈や頭で、経典を理解してしようとしてしまいますが、それではわからないことがまだまだたくさんあるように感じます。
そして最後は目の前にいる人と、一緒に笑って一緒に泣きながら、その心にまっすぐによりそって生きていくことが大切なのではないかと感じるわけです。
副住職
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新年あけましておめでとうございます。
| コメント(2) | 10年01月04日
新年あけましておめでとうございます。
昨年もこのブログを読んでいただいてありがとうございます。
何人かの方に声をかけていただき、また直接お話しする機会がとれて嬉しく思っています。
今年も肩の力を抜いて、感じたことを感じたままにゆるりと更新していきたいと思っています。
またこれをきっかけに、たくさんの方とお話しができたらと思っています。
よろしくお願いいたします。
さて、先日新年早々に、上野動物園にいってきました。
まだ3日だというのに、たくさんの人たちがきていて、賑わっていました。
そこで感じたんですが、よく白い鳩が平和の象徴だといいますが、なんとなく自分にとっては、鳩よりも、象を見ると平和だなぁと感じることがあります。
象の檻の前でたくさんの子どもがへばりついて、親子で象を見ている光景をみてると、日本は平和だなぁと感じるわけです。
昔国語の教科書にあったトンキーの話しがの影響を少なからず受けているのかもしれないですね。
そして、やっぱり平和が一番だねと口に出して思ったのは、やっぱり平和が一番と、10年前にいった自分と、やっぱ平和が一番だという今の自分は同じ言葉を発していても全然違っていて。
この10年の中で、いろんな想いや経験をして、平和の意味も、多面性も、10年前よりはすこしくらい見えるようになってきて、平和というものにのせている意味も想いもぜんぜん別物だと思います。
でも言葉にすると10年前となんらかわらない。平和が一番だね。になるわけで。
いろんなものが一周して同じところにもどってくる感覚というのはこういうことなのかもしれないなぁと思ったわけです。
そんなことを考えていたら、ふと岡本太郎さんが、晩年、やっと子どものころに描いた絵に近づいてきたなぁといっていたということを思い出しました。
そしてそんなことを考えながら、ツキノワ熊のところにくると、なぜかここでいつも、動物園の動物は幸せかなのか幸せじゃないのか?という疑問が思い浮かぶわけです。
そしてそれをいつもペンギンのあたりまでそれをいつも考えて歩くんですが。いつも違う答えが浮かんでは消え、何度この疑問を考えたのかわかりませんが、言葉にするのは難しいのですが、
今回思ったのは、檻の中にいる動物は、きっと幸せだとか、不幸せだとかないんだろうと思いました。
いうなれば幸せだし、いうなれば不幸せなのかもしれません。
草原を走り回ってるほうが幸せだよと思うのはあくまで、自分の想いにすぎなくて。幸せっていう基準が考える人間の数だけ存在する以上、その質問に明確な答えはないのかもしれません。
そして、そういうことをうっかりにでも、考えて、Aが幸せなんだろうか、それともBの方が幸せなんだろうか、と考えてしまう行為自体が人間が苦しみにいかにとらわれているかというなによりの証拠なのかもしれないなぁと・・・Aを離れBを離れることが中道か・・・と。うまく伝えられませんが、
そんなことを白クマの顔をみながら思ったわけです。
それと、余談ですが、いま上野動物園にはパンダがいないんですが、年内にはパンダがもどってくるかもしれないそうです!パンダのいない上野動物園はなんか、みかんののっていない鏡餅のような気がしてしまって、上野動物園にはパンダが戻ってきて、やっとなんかしっくりくる感じがします。
さてそんなこんなで2010年が始まります。
今年も皆様にとっていい歳でありますように。
合掌
副住職
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年の瀬に。
| コメント(2) | 09年12月24日
年の瀬、街もなんとなく、そわそわしているように感じます。
この時期に、鼻からつめたい空気を一杯に吸い込んで、身体の隅々まで、その冷たい空気が流れ込んでくると、身体が内側からぽかぽかあったかくなるような感じがします。きっと内臓が冷やされてたまるかいと思ってがんばるからなのかもしれないですね。
自分の意識とは別のところに、命というのはあるんだなぁとこういうときにふと感じることがあります。
さてこの時期になりますと、お別れの挨拶が、「さようなら」から「よいおとしを」に変わります。自分で、そういう挨拶をしているとふと、別れるときに次に、この人とは、いつ会うんだろうということを考えてる自分に気づかされます。いつもはそんなこと考えないのですが、この時期だけは、すこし相手に置く意識が特別な気がします。
よいおとしを。
そこには、いつもよりもすこし多くの感謝の気持ちが込められている気がします。この時期の特別な挨拶と、その心持ちになんか、やはり日本のこういう文化はいいなぁと思いました。
さて今年はあと何人によいおとしを、というのでしょうか。
みなさま今年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
よいおとしを。
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brain
| コメント(2) | 09年12月04日
ダライラマと対談をしたことのある方と話をする機会があり、その中で印象的だったエピソードとして、その方が教えてくれた話があります。
ダライラマに、その人がこう質問したそうです。
いままでたくさんの決断をされてきて、なかには苦渋の決断もたくさんあったでしょう。そのなかで猊下は、物事を決断する時に一番大切にされているとこはなんですか?なにか啓示みたいなひらめきみたいなものがあったりするんですか?
と聞いたそうです。
そしたらダライラマは、一言
brain
といったそうです。
この話を少し前に聞いた時には、なるほどな、としか思わなかったんだけど。昨日そのこと思い返してふと思ったのですが、
まさにそれはbuddism is being not only doing を実践しているということなのかもしれない。
自分の中に仏教が根付いていれば、自分の考えること、脳みそのはじき出したことで物事を決めればいいということなんじゃないかと思う。解釈に危険性はあるけど、でもいま、なんかその意味が少しわかる気がします。
仏教を心に落としておけば、それは何をしても仏教になるけど、心に落ちていなければそれはなにをしても仏教にはならないということなのかもしれません。
自灯明・法灯明ということの意味もそこにつながってくるんだろうと思います。
どんなりっぱなことをしていても、どんなに知識や教学に詳しくても、大事なのは自分の心がどうあるかということで、いまの自分の状況をしっかりと穏やかにに保っておけるかどうかが大事で、その状態を保っておけるのであれば、あなたはなにをしていても仏教徒だよということなのかもしれません。
いつも24時間じゃなくてもそれを保つためのなにかに、お念仏でも、座禅でもなんでもいいけれど、仏教をちゃんと自分の中に落としておくことが大事だという意味なのかもしれません。
少しづつだけど、時間をかけていろんなものがじわじわと結びついてきたような気がします。
進むべき道というのは、迷ってるうちはどこに進んでも同じなのかもしれない、正解の道なんてのは本当はなくて、逆を返せばどの道も正解になりのかもしれないですね。
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タイから帰国しました。
| コメント(3) | 09年11月19日
今回、タイのチェンマイにある、マハチュラコン大学の建てた、MeditationCenterに籠ってきました。世界各国タイ、ミャンマー、ネパール、スリランカ、インド、チベット、ブータン、ラダック、韓国、中国をはじめ、たくさんの上座部のお坊さんや、各国の在家信徒の人たちと生活を7日間生活を共にしてきました。
毎日瞑想三昧で合計何時間瞑想したんだろうかというくらい瞑想しました。ここで感じたことは言葉にすると伝わりにくいので、熱をもって話したいので、興味のあるかたは、直接お話しできたらとおもいます!(ここの話だけでそうとうおもしろいです。自分でいうのもなんですが)
本当にこの7日間、自分の意識の置き方、日本の抱える問題や各国の抱える問題とそれに向き合う気持ちとか、ほんとうにいちいち金槌で頭をぶんなぐられるような感じでした。
ミャンマーの現状や、インドのカーストの話や、津波の後のいまのスリランカの現状とそこで活動する人たちの想いとか、タイ仏教の現状やチベット問題についてとか。日本の抱える自殺の問題とか、ほかにもかききれないくらい。たくさんの話をリアルにきいて、自分の中では改めて、テレビのニュースがただのニュースじゃなくなった気がします。
そして今回一番強く感じたことは、やっぱり仏教は実践なんだということです。
実践というと、社会的な活動とか、修業とか、どうしても物理的なものばかりが取り上げられがちだけど、そうじゃなくて。心の中に仏教があるかどうかという意味で。
進むべき道に悩んでいた自分にインドネシア人が、ノートにこんな言葉を書いてくれました。
buddism is being not only doing
自分なりの意訳ですが、いまここ。いまここにいる自分と心が大切だと理解しました。
世界の抱える問題の前線で、活動を続けるたくさんのお坊さんたちや信徒の人たち、自分のつたない英語をちゃんと最後まできいてくれて、真剣に目を見て話をしてくれて、誰ひとりとして、日本からきた若造の話を聞き流してる人がいなくて、(むしろ聞き流してほしい時もあったのに)そんな姿勢1つ1つに、仏教のすごさというか、実践することの大切さとか、そんなものをまざまざと見せられた気がしました。
実践とはあくまで自分の中にどう落としているかどうかということなんだろうと思います、それさえできていれば、どんな行動でもそれはEngaged Buddhismになるんだろうと思います。
熱は高いところから低いところへ流れる。
今回、自分が誰かに熱をわけてあげられたかはわかりませんが、いま自分の心の中はものすごくあったかいし、たくさんの熱量と気持ちと、経験と意識もって帰ってこれたと思います。
きっとこれから先の自分の人生の中で、確実に自分の核をつくる要素になるであろう大事な想い。自分の進もうとしていた道や目指していた仏教の道の先に曇っていた霧がすこしはれた気がしました。さぁと背中を押された気すらします。
そして、たくさんの宗教や人種、それぞれを取り巻く環境や立場があるけれど、やっぱりみんな一緒で、なに人でも、笑ってて泣いてて怒ってて。、同じ感情を持ってるわけで。
だから答えだって1つなんだと思います。
これから時間をみつけて、この旅の間に描きためたメモを反芻しながら、大切なことからどうでもいいことまで、少しづつ切り取って書いていこうと思います。
また興味のあるかた、ぜひお話がしたいので、次回お会いした時にでもお気軽に声をかけてください。
副住職
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モスバーガー
| コメント(1) | 09年11月04日
この間、世間のお坊さんに対するイメージとはなにか?かっこいいお坊さんとはなにか?ということを若い僧侶があつまって話をする機会がありました、そんな中で、自分は、やっぱり格好だけじゃなくて、中身だと思うし、お寺や跡取りだとかお寺に生まれたとか、そういう背景の前でしか胸を張ってお坊さんだと言えないのは違うと思う。と主張しました。
そんなことがあって数日して、ちょうどお昼時に外にお参りに行った帰りに、お昼を買って帰って家で食べようと思い車を走らせていました。そこでちょうどモスバーガーがあったので、そこで車をとめて買って帰ることにしました。
衣であんまり外で買い物をするということはないし、少しどうしようか悩んだのですが、別にいいだろう悪いことしてるわけじゃないし、と思い休日のお昼時のごった返すモスバーガーに入り、長い列の後ろに並んでいました。
その列には、家族連れ、学生さんやサラリーマン風の人、そしてお爺さん、そこに間衣輪袈裟の自分。はじめはよかったのですが、だんだんと周りの目が気になるようになりました。向こうの席では子どもが、お母さんみてみて、と明らかにコチラを指さしていますし、そうなると、みんなの心の声まで聞こえてくるようでした、お坊さんがハンバーガー食べるんだ・・・場違いじゃないか・・・というような・・・なんともいたたまれなくなり、番号札を持ってまった10分はもう1時間もまったかのような長い時間に感じました。そしてそそくさとお店を後にしました。
その時にふと思いました。
非僧非俗だなんて、わかったような口をきいていても、やっぱり自分もイメージを気にしていて、僧侶というイメージを守りたかったんだろうなと。
そう思ったと同時に、比叡山というお寺を下り、俗にくだり、お坊さんとか、お寺とか背景を捨てた親鸞さんのことが思い浮かびました。自分は、坊さんがなにしにきたんだという、顔をすこしされただけで、いたたまれなくなって逃げ出したくなったのに、親鸞さんがやったことは、衣でモスバーガーにはいって、そこで法話を説いて、真宗を広め、そこにいる人を真宗に教化したようなものなんじゃないかと思いました。
本当に自分はまだまだ器が小さいと思うと同時に、親鸞さんのやったことや、残したものの大きさと重さを思うとあたまがくらくらするような思いがしました。
例えが極端かもしれませんが、俗をすて出家したのがお坊さんで、それは俗とはきりはなされていますが、真宗のお坊さんは、非僧非俗ですので、僧でもなく、俗でもなくその間にいるというのは、衣をきているけど、ハンバーガーはたべますよ。そこの立ち位置で、ちゃんとまっすぐにお念仏をして生きていきなさいというようなものかもしれません。そこで後ろめたさを感じる自分はまだ、凡夫である自覚もできていないのに、非僧非俗だなんていう、口だけ真宗になってしまっていたなぁと思うと同時に、これをちゃんと自分の生活に落としていくというのは、並大抵のことではないことで、真宗というものの奥深さを痛感した気がしました。
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ほとけさまのものさし。
| コメント(3) | 09年10月25日
ほとけさまのものさし
最近ではテレビのニュースをみていましても、重箱の隅をつつくような政治や自分勝手に命を扱うような犯罪があふれ、国際状況もそれぞれの国が権利ばかりを主張するようなニュースがあふれています。
そんなニュースを見ていてふとうちのトイレにはあいだみつをさんのカレンダーのようなものがかかっているのですがその言葉の中に『損か徳か人間のものさし うそかまことか仏様のものさし』と書いてあったのを思い出します。
いつもなにげなくみていたのですが、ふとそれについて考えてみました。たしかに自分が何かを判断するときに気づくとこうしておけばきっといいだろうとか。こうしておけばきっとこう思われるんじゃないか。きっとあの人いい人だとか、あいつはうさんくさいから関わるのをやめようとか。あの人は気が利くとか気が利かないとか。など言い出したらきりがないですが自分の主観でものごとを判断します。知らず知らずのうちに物事にレッテルをはったり、自分の範疇でそのものに優劣や価値をつけようとします。
しかしそのすべての判断は自分のものさしでしかなく、それが本当の姿ではないわけです。
そのものさしはきっと時と場合によっても変わってしまうし、ころっと手のひらを返したように長さがかわったりします。
しかし仏様の真実のものさしというのは普遍であるというわけです。
例えば。
人間のものさしではものの価値というのはころころ変わります。
お腹がすいていればなによりも食べ物がほしい。お腹が一杯になれば次はお金が欲しい。
なにかがうまくいっているときは自分は価値のある人間だと思ったり。そうでなくなると自分には価値がなくなってしまったと嘆いたりします。病気になってはじめて健康の価値に気づきます。優しい人はいいひとだといったり無愛想な人は倦厭します。
人間は多くの執着によって苦しみます。しかし元をただせばその執着を生むのはこの物事にレッテルをはってしまう人間のものさしが生み出しているわけです。
目に見えるものしか信じないで、目の前の価値のあるものだけを信じる。そうすると例えばあの人はいい人だと思った人に裏切られる、よかれと思ったことがあだになる。そういうことは人生の中でいくらでも起こりえるわけです。そして最後は自分の判断そのものすら信じられなくなりかねないわけです。それも元をただせばやはりどこかで自分のものさしで判断した結果ではないかとおもうわけけです。
それに対して仏様の物差しの前ではものごとの価値はかわりません。
お腹がすいていてもお腹が一杯でも、仕事がうまくいっていてもいっていなくても、病気でも健康でもましてや若くても年老いていても。ましてそれが善人でも極悪人でもペテン師でも。
すべてのものの価値は変わらないということです。
法華経というお経のなかにこれを諸法実相と言う言葉で表現されていますが。直訳しますとすべてのものがもうそのままで真実である。ということになります。こう書きますと難しく聞こえますが
よく禅問答で使われるたとえ話にこんな話があります。
目の前で自分の妻と母親がおぼれている。さてどちらから助けますか。さてほとんどの人はここで迷うか、飛び込むのを躊躇すると思います。自分もそうです。ここでためらうということがまさに。人間のものさしということです。仏様の前では二人ともただの人です。
仏様の前では手の届くところにいる人から助けるというのが正解です。二人にはってある妻、母親というレッテルはそこにはないわけであります。
ここまで話しますとそりゃそうだしわかっているけどそんなトンチみたいな話は納得できないし、そんなことはできるはずないと思う方がほとんどではないかと思います。
それが自然な心だと思います。
思うにその心こそ他力本願の入り口ではないかと思うわけです。
まずはそれができない自分を自覚し、自力ではどうにもならないことがあると気づかせていただく。
人間がそういう判断ができないのは何千年も前から変わらないわけで、多くの人がそれができないがゆえに覚りに至ることができないわけであります。
だからこそそういう人間こそ救われなければならない。そういう人間こそが救われる方法があるはずだとお考えになられたのがいま本堂の正面にいる阿弥陀仏という方になるわけです。法事の時にいつもよむたんぶつげというお経はその決意を述べられたわけであります。
そこで阿弥陀仏はあなた達が悩む悩みはもう私がすべて悩み抜いた。行ずべきことは私がすべて行じた。だから私の名前を呼びなさいと述べられたわけです。南無阿弥陀仏。と言う声はそういう自分をすべてをお任せいたしますよ。という声になるわけであります。
「阿弥陀さまの本願を信じ念仏申せば仏となる」と親鸞聖人は述べられました。
本願を信ずるにはまずは自覚をしなければならないわけで、その自覚こそが弥陀の本願の入り口であるわけです。
そして自分がにんげんの物差しから仏様のものさしになるということはとうてい難しいということを心から自覚できたときにはじめて信心が生まれるのではないかと思うわけです。そしてそのときにはじめてお念仏というものが自然に口からでるようになるのではないかと思うわけです。
よく現在は末法の世といわれます。末法というのはお釈迦の立教以来1,000年の時代を正法(しょうぼう)、次の1,000年を像法(ぞうぼう)、その後10,000年を末法の三時観で分けて考え、お釈迦の教えが及ばなくなった末法においては、仏法が正しく行なわれなくなるという考え方です。世も末だといいますが。
現代に生きて、社会生活をすると一歩外に出れば人間のものさしがあふれています。その中で生きていくしかないわけであります。新聞をみても、テレビをみても。職場にいてもそれこそ家にいてもそうかもしれません。
点数や、成績、お金物事に価値をつけることで成り立っている社会です。判断を狂わせるようなことがたくさんあふれています。山に篭もって生活するならいいかもしれませんが現代人はそうではありません。
その中で生きていくことはものすごく大変なことだと思います。しかし物事の本当の価値が見えにくくなってる現在だからこそ改めてそのことに気づかせて頂く必要があるわけです。
昔曽我量深先生という方が寂円寺に寝泊まりをしていたときに、祖母が朝新聞を届けたそうです。そのときに曽我先生は娑婆の話は十分ですわ。とおっしゃられたそうです。その話を聞いたときは雲の上で生活しているような人だなぁと思いましたが、その言葉の意味がなんとなくわかったような気がしました。
真宗は聞法第一という言葉があります、聞法とは「法に聞く」という意味で、法(教え)に私の姿を聞き、知ることです。鏡がなければ自分の顔を見ることができないように、法(お経)は、鏡に喩えられ、私たちのあり様をうつし出すものです。
このように聞法をして改めて自分の姿を気づかせていただけたことに感謝し、またお寺というところが末法の世においても大切な聞法の場であり続けたいと思います
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我慢
| コメント(1) | 09年10月07日
先日お彼岸の法話の後に、「我慢」というのは仏教ではどうとらえるのか、ということで、お声をかけていただきまして、自分なりに我慢ということを考えてみました。
仏教には「忍辱」という言葉があります、これは行の1つで、あらゆることに耐え忍び、平常心を保ち、寛容に生きていくということを指すわけですが、こう書きますと、嫌なことや、つらいことを我慢して、耐え忍ぶこと、ぐっとこらえることだと受け止めがちになってしまいますが、仏教でいう、忍辱とは我慢のことを指すわけではないようです。
我慢というのは、人間ながくは続かないものです、お腹の中にぐっと溜まった我慢は、いつか爆発するか、しなければ体や心のバランスを崩す原因にもなるかもしれません。
実際自分自身、長い間我慢をしていると、ストレスも溜まりますし、小さなことでイライラしてしまったり、許容範囲が狭くなってるなぁと感じます。
仏教では、我慢を以下の七慢の1つとして分類しています。説明文を他のサイトから引用させていただきます。
1「慢」他と比較しておごり高ぶることを意味します。
2「過慢」自分と同等の人に対して自分の方が上だと思う。
3「慢過慢」自分より優れた人に対して、自分の方が力量があると思い誤ること。
4「増上慢」自分が一番正しくて、他人はみんなろくでなしと思ってしまうこと。
5「我慢」自分に執着することから起こる慢心のこと。
6「卑慢」実は自分はすごいんだ、という傲慢さがにじみ出ている人。
7「邪慢」徳もないのに、「自分は徳のある人間だとしたり顔をしている人。
このように我慢とは、仏教では、慢心であるというとらえ方をします。日本人の美徳として、耐え忍ぶということは素晴らしいことですが、それが行き過ぎてしまうと、つい、我慢してるのに!こんなに我慢したのに!我慢させやがって!などと心の中に、怒りや苦しみや、ねたみや、そういうものを生み出す原因にもなってしまうわけです。
また、不満な状況や環境に遭遇した時に、なんで自分だけがこんな目に・・・とか、お金があれば回避できるのに・・・とか、あれが手に入ればなんとかなるのに・・・など、いかにその状況を回避しようか考え、そこにとらわれてしまうことで、現状をしっかりと受け止め見つめるということができなくなってしまいます。
こちらも引用ですが、良寛和尚の有名な言葉に、「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬる時節には、死ぬるがよく候。」とあります。「災難や死には普段からそれぞれ備えをなすべきで、その場に臨んだら避けられないのだから、災難や死に徹して生きよ」(松原泰道「心の杖ことば366日」海竜社)ということです。
つまりは、仏教でいう「忍辱」というのは、我慢して耐え忍ぶことではなく、いかに目の前の現実を受け止め、とらわれずに生きていくかという意味があるのかもしれません。現実に目を向けて、それを自分の中で受け止め、その現実に、つきあっていこうと思える腹の据わった姿勢と、心持ちが忍辱ということなのかもしれません。
そうはいっても、人間、つねにいろんなことを我慢をして、ストレスをため込んでいきているものです、いきなり頭を切り替えてそうしましょうといってもなかなかできるものではありませんが、仏法に触れ、頭の片隅にでも、仏法のいう忍辱という言葉をとめておくだけでも、少しづつ心や行動に影響してくるのかもしれないと思います。
今回法話の後にお声をかけていただき、このように自分自身、考える機会をいただきありがたく思います。いつでも気軽にお声をかけていただき、聞法の機会をいただけたらと思います。ありがとうございました。
副住職




