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後生の一大事

| コメント(2) | 12年01月25日

震災からもう少しで1年になりますが、震災以後、幸せとはなにかということを深く考えさせられます。

今、自分が幸せは何であろうかということを、突き詰めて考えるとする。それを考え抜いた末に、自分なりの理論や持論をみつけたとして、それをせっせと自分の中に還元しながら、日々を安穏と、そして穏やかに過ごしていたとします。

そのまま年をとって老人になった時に、大きな地震がきて、もしくは津波がきて、家族や家や、友人を奪い去ってしまうかもしれない。それはどんなに自分の中で鍛錬をしていても、どんな人生を歩んでいても、その悲しみをぬぐい去れる術なんてないような気がします。

つまりは「幸せ」というものはそういうものなのかもしれません。

自分に関係ないところで、つねに動き変わり続け流れ続けているこの世界で、幸せもつねに動き流れている。数年後の未来や数十年後の未来の幸せの為に生きて、今なにかを積み重ねたとて、それはもしかすると砂上の楼閣なのかもしれません。

災害に見舞われなくなって、10人に1人は60才まで生きられないそうだし、2人に1人は癌で死ぬそうで、自分も例外なくそこに組み込まれているわけで。悲しみに暮れてうちひしがれて死んでいく可能性を十分にもっているわけです。

人間の人生なんてものは、事実を見開いて見つめればそんなものなのだと思います。蓮如上人のいう後生の一大事に気づくということはそういうことなのかもしれません。

ただ、だから悲観して、どうせがんばってもしょうがないというわけではなく。

だからこそ、今この一息でこの文章を書いていることも、この一息で深呼吸することももっと大事に思えるような自分でありたいし、そういうことを思う余裕を持てるだけの自分を保っていられるための精進だけはしておきたいと思います。

社会の中で生活をしながら生きていれば、山里にいるわけではないし、稼がなきゃ家族を養えないし、食べていくこともできません、そうしてなにかに追われていれば、一息を大切にするなんて気持ちなどすぐに忘れてしまうのですが、でもせめてそれを思い出す頻度をもっと高めたいと思います。

幸せというものは次の瞬間にはなくて、今の瞬間にあるかどうかというようなものかもしれません。

こういうことを思える自分を保つということは大変な事で、その自分をどうやったら保てるかということを突き詰めていくことが仏教でもあるのかもしれないということを最近感じています。

副住職

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2011年を振り返り。

| コメント(1) | 11年12月29日

今年も残すところあとわずかとなりました。

今年は親鸞聖人750回御遠忌に法然上人800回御遠忌の年。その節目の年に東日本大震災がおきました。

この1年、震災があったことで、自分自身、僧侶としてなにができるだろうかということをよく考えました。また、震災後に原発などの問題もあり、多くの人達が漠然とした不安を抱えている状況の中で、様々な活動をしている僧侶がいることを目の当たりにすることで、自分がどういう僧侶になっていきたいのかということもよくみえたような気がします。

その中で1つ強く感じたのは、やはり仏教は人のいるところにあるものなのだということ。人のいるところに苦しみや悲しみがあって、僧侶はその人の顔の見えるところにいるべきなのだと思います。

あたりまえで簡単なようだけど。

人の顔を想定しないで、ああでもない、こうでもない、顔も想像できないところで議論を繰り広げると言うことが当たり前のようにあちらこちらでは行われているように感じます。

復興や原発の議論1つとってもそうです。

避難区域にいるのかいないのか、家族を失ったか失っていないのか、住んでいる場所や営んでいた仕事によっても、そこにある答えは様々に変化するのだと思います。むしろ様々であって当然なのだと思います。

今回の震災を通して、その様々にある人間模様の一つ一つの顔の見えるところに仏教はあって、僧侶がいるべきであり、その苦しみの数だけ僧侶のあり方があっていいのだと思うようになりました。

教えは八万四千もあるのだといわれていますが、これこそがまさに待機説法ということなのかもしれないと思います。

今回震災のについて色々と考えているときにふと、救うっていうのは掬うって言い換えてもいいのかもしれないと思いました。

掬う為には、そっと両手を差し出せる距離にいなきゃ駄目なんだろうと思います。

願わくば、自分は人の顔の見えないところでなにかを動かすような僧侶になるのではなく、自分の手で直接誰かの顔を見て何かを掬えるような僧侶になれたらと思うようになりました。

今回の震災を通してこうして、自分自身を見つめる機縁をいただいたこと、そしてそれがこの御遠忌の年であったということで自分の中ではこの1年は忘れることができない年になりそうです。

まだまだ東北の方々のご苦労には計り知れないものがあります、一日もはやい復興と安穏とした日々を送れることを御念じ申し上げます。

そしてまた来年も引き続き自分のできることを一つ一つやっていこうと思います。

今年もたくさんの方々にお寺にお参りにいただきありがとうございました。
来年もまた宜しくお願い致します。

よいお年を。

副住職

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浄土の機縁

| コメント(1) | 11年11月17日
金子大栄先生の浄土の機縁」の直声の法話のデータをもらったので聞いたのだけど、言葉の一つ一つが腑に落とされるような感じ。これこそがまさに「ご了解」なんだと感じた。

自分の感じたことをつらつらと語って、感想文みたいなものをこれが我がご了解だなんて言っている自分があまりにも小さく感じるほどに。金子先生の見ている世界のかけらでも自分に見える日が来るんだろうか。なんて大それた事を思うもすぐにそんな日はこないだろうと思い直す。

「浄土はこの世ではない。したがってこの世にいる限りは悟りを開くということはできない、悟りはこの世とは陸続きではないところにあるということ。そこを理解できなければ浄土教はなりたたない。本願も念仏も意味を失う」

「如来の本願と人間の理想はかけ離れている、だからこそこの世を浄土にすることができない。この世と浄土は断絶されている、しかしながら人間の理想を断念することで感じられる本願の世界は、もっと深い意味においての理想の世界であるとも言われるかもしれないが、ともあれ、浄土教に説かれる浄土はこの世でなく来世である」

「親鸞聖人の生涯を貫いてみられることは、時代悪のうちおける人間の悩み、あるいは社会悪に悩むところの個人の悲しみと言い表せるかと思う」

一見あたりまえな事を言っているようなのだけど、この発される言葉の一つ一つに今の自分にはのせられないものがのっている気がした。あたりまえだが、同じ事を自分が言っても誰にも伝わらないだろう。そこに実感は伴っていないし、実感を伴えるほど勉強もしてないし、体感もついてきてないからだと思う。

なんかいろんな人の話を聞いたり、いろんな場所に行ってみて、言語とか、言葉の字面とかじゃなく、言葉には、発する人しかのせられない特有のものがあるという思いは最近核心に近い。

そこをしっかりくみ取ることができれば、意思疎通で大きく食い違うことはないと思うし、真剣に目を見て会話をすれば、その人の会話のどれだけに実感が伴っているかなんてことはわかるんだろうと思う。どんなに背伸びしても、ボキャブラリーを駆使しても伝わらないものは伝わらない、伝わるものは伝わる。

字面でいい法話をできるようになるのはそのうちできるようになるだろうけど、同じ字面でも伝わるか伝わらないかの違いというのがあって、その間にあるものがいま自分の身につけなきゃいけないものなんだろう。

それと。

やはり思ったのは。

「凡夫」である自覚というのは言葉にするのは簡単だが、これに体感を伴わせるのは並大抵ではない。

戦争を望むのも平和を望むのも、相手を受け入れるのも批判するのも、希望を見いだすのも、絶望にうちひしがれるのも、自己保身と、欲望と自己愛の中から生まれてくることで、いつも自分は正しく相手が間違っている。という思い込みから生まれるのだ。社会的評価やどちらが多数決で多くの賛同を得るかなんてことは関係ない。

自分の怒りはそのまま相手を肯定する唯一の証拠でもある。

浄土教はよく、自虐的だとか、あきらめすぎとか、そんなこといってたら弱肉強食のこの世の中で生き残れないとか言われるけど、自虐的でも弱肉強食でも、それで自分が生き残れないならその時は地獄も一定すみぞかしなのかもしれない。

でも、言うが易し、それを本当に貫くとなると、やはりそこにどうしても「お念仏」というものがなければならないのだろうと思う。

なんか宗教離れとか、仏教離れなんて言われて、あたふたしているお坊さんもいるようだけど、正直言うと、しっかりと自分の中で真宗の教えを味わいそれを、しっかりと伝えることができるようにさえなれば、必ず誰もが必要なものであると思えるので、自分の場合はなんの心配もしてなかったりするのです。

副住職

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2011秋彼岸法話

| コメント(2) | 11年09月28日

ある僧侶の団体が被災地にいった時に、一人の老僧がコメントを求められたそうです。


その時その老僧は一言、ああ、地震の時自分はここにいなくて本当によかった・・・思わずとつぶやいたそうです。


その発言を聞いたに周りの人たちはびっくりして、その発言を不謹慎だといったそうです。もしかすると、これが大臣かなんかの発言であれば、間違いなく辞任に追い込まれたかもしれませんし、たしかに言葉が足りなかったと思います。


しかしこの話を聞いたときに自分の中で真宗的であると感じました。


正直言えば、みんな心のどこかで思っているのです、自分でなくてよかった、自分の家族が無事でよかった。それは悪いことではありません。当然のことだと思います。


しかし、そんなことを口に出せば、被災された人たちに配慮が足りない、不謹慎だといわれてしまいますし、わざわざ口に出すことでもありませんし、テレビやメディアでも、そんなことは流しません。そして、がんばろう!日本 顔をあげて応援しよう! 負けないで! というキャッチコピーを掲げて日々東北へ向けてメッセージを送っているわけです。


しかし、本当の所、ここにいる私たちがどれだけ、今回の事を我が事として受け入れられているのか。ましてや東京にいる自分にとっては今回の震災の被害、東北の状況というのは、表面的で、情報だけを自分の中でイメージしたに過ぎないのです。


しかし、現地に足を運んで心から自分がここにいなくてよかった・・・と安堵する気持ちの裏側にあるものは、自分がそこまでに感じたその場所にいた人がいるのだということをしっかりと自分の中に認識したということになるということになると思います。その認識や自覚があってはじめて人間は痛みや悲しみや苦しみに寄り添うことができるのだと思います。


自分は日本がんばれ!というキャッチコピーに共感しますし、東北をなんとかしたいと思っていますが、きっと現地で、ここにいなくて本当によかったとつぶやいた人の半分も震災を実感できていないと思います。


感情の一部分でも自分の中で共有できなければ、本当の意味で被災者の心に寄り添うことができないのかもしれません。


だから自分とその人とどちらが東北の人の心に寄り添えるかといえば、きっとその方だと思うのです。


この話をきいてなにがいいたいかといいますと、表向きに見える言葉や、行動だけがすべてではなく、本当の意味で大切なことというのは、案外どこに落ちているかわからないということ、そして自分の中に湧いてきた感情をしっかりと受け止めるということは大切なことであるということです。


その人の発言だけをとりあげて、ああいう不謹慎な発言をしている人間は駄目だ。自分はそんなことはいわないよ!被災者のことを思って毎日がんばれ!と声をかけているからね。というのでは、本末転倒ではないかということがいいたいのです。


この方は津波の被害を見て、その壮絶さに、自分がそこにいなくて本当によかった、自分は直接被災しなかったというその御縁が自分にあったことをかみしめ、そしてその場所で多くの人がいたということを、自分のことのように心を痛めたのではないかと思います。


この話を聞いたときに、悪人正機という言葉を思い出しました。


歎異抄の3章の冒頭にでてくる一文に「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という1文があります。意訳しますと、善人が救われるというのならば、悪人が救われて当然だ。つまりは阿弥陀さまはそういう区別なくあますところなくすべての人を救うということになります。


普通はであれば、悪人が救われるなら善人が救われるなら当然だ。というならわかりますが、親鸞聖人はまったく正反対のことをいったわけです。なぜそのようなことを述べたのかというところを考えていきたいと思います。


まず悪人をイメージしてください。と言った時に多くの人は、泥棒や人殺しなどの犯罪者や、さらには人相や柄の悪い人をイメージしるのではないでしょうか。そうしますと逆に善人といえば、温厚で穏やかで、にこにこした、人をイメージするのかもしれません。


しかしそんな漠然としたイメージだけで多くの世間一般的な善や悪というイメージというのはわかっているようで、実は曖昧で確実な基準というのはないわけです。


最近節電ということがいわれていますが、ある人がエアコンをとめて汗だくでテレビをみながら、エアコンの中で涼しそうにしている友人に、エアコンを止めるように強要したそうです。


自分は汗だくで節電しているのに、なんでおまえだけ涼しげな顔をしているんだといったそうです。しかしその話、実は本当のところをいいますとテレビの消費電力というのは思いの外大きいそうです。ですので、汗だくでテレビを見ているよりも、涼しげに本を読んでいる方がはるかに節電になるそうです。


これは例え話ですが、このように、いいことをしようという気持ちは大事ですが、自分の想像してない部分や、本当の所で、その行動は必ずしもいい結果に結びついていない場合というのもあるのです。


親鸞聖人も歎異抄の後序の中で善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。と述べています、つまりは善と悪このふたつはなにがよくてわるいかは自分の知り及ぶことではないということです。つまりは私たちのする善悪の区別や判断などあてにならないし、絶対でないということを述べているわけです。


現代は情報社会です、自分もそうですが、テレビをみていて、あいつは悪い。こいつはいいなど、だれかがだれかを判断して、あたかもその価値観があたりまえであるかのように蔓延しています。自分はしっかりしているから大丈夫だ。自分でしっかり判断してる。


自分には関係ないとおもっていても価値観までも刷り込まれてしまう時代です。いつその中に自分がはいっているかもわからない。そして知らないところでたくさんの犠牲をしいているかもしれない、大きな勘違いで悲しむ人を生み出しているかもしれないという事実がここにはあるわけです。


阿弥陀仏はそういう人間の勝手につけた善とか悪とかそのような区別など一切関係なくもっと大きな目で私たちをみてくれているわけです。そして人間は自分の思うとおりにいいことやわるいことをすることすらもできないものだといいます。そしてだからこそすべての人を余すことなく救うと述べているわけです。


これを頭で理解するというのはなかなか難しいことです。


それはなぜかといえば、一番見えにくく一番近くにいて一番遠い存在が自分であり、それが人間だからです。


一番はじめに、悪人をイメージしてください。といいましたが、そこでまず自分も顔を思い浮かべた人はいないと思います。それくらい人間というのは自分以外のことが見えていないわけです。自分はあんな人間ではない、自分がそんなことをするはずがない。さらには自分の身にそんなことが降りかかるはずがないとたかをくくって生きているものです。


清沢満之というかたの言葉で「宗教は自覚である」という言葉が少し前まで門前の掲示板にはってありましたが、真宗の入り口、さらに宗教の入り口というのはまずは自分自身に目を向けることですです。自らの身をただしい目で見て凡夫であることを自覚をするということが大切なのではないかと思います。さらにいえばこの自覚というのは、目の前にある事実を他人事としないで自分の中にしっかりと落して考えるということでないかと思うわけです。


自分の中に湧いた気持ちをしっかりと目を背けずに向き合うこと、そして素直に自分をしっかりと自覚するということは真宗においてはとても大事な事です。


話は初めに戻りますが、この老僧の一言「ここにいなくてよかった」と湧いてきた気持ちをしっかりと受け止めて、そんなことを感じてしまう自分だからこそ、救われるべき存在なのだ。と一歩足を突っ込んで考えるのが真宗の大切な部分であるわけです。


それが真宗でいう聞法の入り口であり自力を離れ他力に依るということなのではないかと思います。その自力の無力さをしり他力を知ることを回心といいます。


その深い自覚を感じ回心した時に初めて自力いうものの無力さを痛感するわけです。そして本当に正しいことなんていうのは自分の手の終えないところにあるかもしれないということを知ることで、謙虚に、そして日々を寛容にいきることができるのではないかと思います


そして自分の手に負えないことだからこそ、 救われるしかない自分に深く気付き、そこで初めてに阿弥陀仏の本願に灯が灯るわけです、そしてそう感じた自分の中から、お念仏があとから自然と口をついてでるわけです。


南無阿弥陀仏


このようなわが身を一切おまかせいたします。といういみです。わが身をおまかせして目の前の現実に深く手を合わせしっかりとそれを受け止めて生きていく。その心の中、その姿の中に阿弥陀様がいるのではないかと思うわけです。


今回このお彼岸という日を機縁に自分自身も改めて見つめ直す機会をいただければと思います。とてもこの時間の中には語りつくせないものがあります。そんなとても難しいテーマでお話をさせていただき自分自身まだしっかりと受け止めきれていない部分もあり、たくさんの疑問も抱える中でわかりにくく伝わりきらなかった点もたくさんあったかもしれません。最後まできいていただきありがとうございました。


副住職

 


 


副住職 


 

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インド旅2001 総括

| コメント(2) | 11年08月27日

先日インドに行ってきました。

その中で感じたことを何回かに分けて掲載したいと思います。旅の間にまとめた文章をそのまま掲載しますので、きれいにまとまっていない部分もありますがご了承ください。

本当は時間軸にそって書いていきたいのだけど、まずは総括として。

今回の旅が終わって。

家に帰ってきて、あっという間に日常が戻ってきて、街を歩く速さも時間も食欲も、身体の隅々のたるみきった感覚があっというまに既存設定に順応し始めようとする。

それがいいのかわるいのかはわからないのだけど・・・

インドを旅して。

正直言えば、旅の締めくくりに際して、自然と共に生き、たゆたう聖なる川に抱かれて生きる彼らには、足りないけど何かがある。それは日本人の忘れてしまった何かなのかもしれない。とかなんとか言ってキレイにまとめようと思えばまとめられると思うのだけど、けど今回、そんな頭の芯から酔うような感覚を味わったかというと、そんなことなくて、今回ほど冷静にいろんなことを考えながら旅をしたのは初めてかもしれない。

それがなんでか考えた。

たぶん、それはインドの現状はどこまでも現実だからなのだと思う。なんかすごくリアルなんだ、人が生きているということが。

すべてがすべてではないにしても、どんなに表向きには共生しているように見えても、旅行者にわかるくらいにカーストの壁はあるし、貧富の差も激しいなんてものではなくて、それはギャップなんて呼べるほどかわいいものではない。それなのにそれぞれがその自分の置かれた現状にふてるわけでも、腐るわけでもなく、言い方は悪いが、おこがましく、ずぶとく、それぞれがあたりまえのようにそこに生きているのだ。

決して覆ることのない絶対的な壁をどてっぱらで受け止めて生きているというのが、インドの根底にある力強さであり、その空気がインドという国を醸し出しているような気がしたのだ。

(それがプライドの高さにも通じてくるし、間違った道を平気で教えることにも繋がるのだけどその話はまたあとでまとめる)

デリーの街でバラモン階級のインド人の家に案内され食事を振る舞われる、豪華な一軒家で次から次に料理が運ばれてくる。子どもたちは、キレイな服を着て、芝生のキレイに整えられた高級住宅地の公園で遊び、おもちゃもたくさん持ってる。その彼と車で街に出れば、信号待ちでとまる度に、そこの家の子どもと同じくらいの年の子どもたちが、車の行き交う交差点のど真ん中で、真っ黒になりながら、花を売り、時に大道芸まがいのことをして、バクシーシを求める。

バラナシの街では家に住んでいるインド人が小屋に住んでいるインド人を使い、齢60も越えているであろう老人が町中に散乱した糞尿を掃除をしていて、旅行者にやせこけた腕をさしだしてバクシーシを求める。それを若いレストランのオーナーは怖い顔で追い払う。

それがインドなのだ。

(そしてその現実は宗教心や信仰心にも直結している)

そんな現実を旅するうちに、日に日にこの国での旅行者の立ち位置というのはとても面白く興味深いなと感じた。

どこにも属さず、カーストを超越した自分たちは、彼らにとってはある意味、治外法権なのだ。お金になる可能性があるなら挑戦してしかりなのだ。

だからこそ旅行者は気をつけなければいけないし、そのあたりを頭に入れておかなければいけないと思う。そういう点で他の国に比べて、この国ではすごく体力と気力を消耗するから、それが嫌な人はもうインドには行きたくないと思うのだろうと思う。

でもそのデメリットの反対側にあるものは、カーストを超越した立場の自分たちだからこそ、相手にとってはフラットになりえる存在なのだ。そしてインド人にとってフラットという関係で結ばれることこそが強い絆なのだ。

そしてその絆ができた相手に対してインド人の心のひらきっぷりは日本人のフレンドリーさを遙かに凌駕する。インドにはまったという人の多くは、インド人の人柄であり、人間そのものに取り込まれているのだろうと思う。それはつまりはそういうことなのだと思う。

インドで仲良くなったインド人は自分をガイドと呼ばれるのを嫌う。そこに主従関係のようなものができることを嫌がるのだ。それを聞いたときに、インド人がすごく理解できた気がしたのだ。

その根底にあるフラット信仰のようなものが、インドの空気と人間を醸し出していているのだ。

つまりは根深いデメリットの反比例にあるものが、この国の最大の魅力をつくっているいっても過言ではない気がしたのだ。

なんとなくそんなことを考えながら、インドを旅していたので。

ガイドブックを鵜呑みにして、インド人の差し出すものには一切手をつけず、鞄を大事そうに抱えて、何どもチャックが開けられてないか確認したり、なにからなんでも1Rp単位までまけさせようとごねていたり、インド人との約束を簡単にすっぽかしたり、なにを話しかけられても無視して目すらも合わせない旅行者をみていて、すごくもったいないし、そんなんじゃインドの魅力のこれっぽっちも見えないんじゃないかとすら感じたし、そんなことを助長するガイドブックの書き方にも疑問を覚えた。

(それでも書かなきゃいけない気持ちもよくわかる、いうなればこの国での旅行者の立ち位置を言葉で伝えることはそもそも難しいのだ)

だまされる前提は仕方がないのだ。それは先にも述べたが、自分たちは旅行者であり、相手からしたら治外法権なのだ、その前提を頭に入れた上で、ここから先は旅行者の問題なのだ。

そこで相手との立ち位置を自分で変えない限りインドの魅力は絶対にわからない。

忘れちゃいけないのは。そのさじ加減なのだ、そのさじ加減がとても難しい。心を開くというのは簡単なようで難しく、距離を詰める、フラットを結ぶというのは、一長一短でできるこではないし、時間の少ない旅行者にとって短い時間でそれを得るというのはかなりハイレベルのことなのだと思うし、すべてにオープンマインドで、こちらから距離をつめていけばいいと言うものでもない、むしろそういう一方的にフラットを築けていると思い込んでいる人ほどカモになりやすいとも言えると思う。

(インドの危険な体験を語る多くの人は、なにも聞いていないのに自分からそれを語るくらいのスピードで距離を詰めてこようとしたりする人が多い)

どこで誰にどうやって心を開いていくかいう判断と、その判断を実践に移せるだけの技量が言うなれば、旅人の資質みたいなものなのだろうと思う。インドには目を見張るくらい旅のうまい人も、イガイガするくらい下手な人もいる。それが顕著に見えたし、自分の小ささも駄目さもよく見えて、本当に勉強になった。

これはもう言葉では説明できないのだけど、郷には入っては郷に従えという例えになぞらえるのなら、インドの郷に従うのなら、そこに住む人間をよく見て、よくよく見て感じて、目を見て話をすることなのだと思う。

(目を見て話していれば薬でとんでるかどうかくらいの判別もつくし)

今回、本当にその距離感と言うことを自分の中で実感を伴って学んだ気がした。

インドという国の人間は本当に面白い。

インドという国は、清濁併せ持った実に人間くさい、むきだしの国なのだ。

だからすごく好きにもなれるし、すごく嫌いにもなれるのだ。

今回はめずらしく結構感情的にインド人に怒ったりとかしちゃって自分もまだまだだなと反省。

ビバナマステ。

これから時間軸にそって感じたことをまとめていこうと思う。でもこの経験や体験は、文章にするよりも本当は、直接口で伝えた方が空気感が伝わるような気もするのだけど。旅の記録として、少しづつまとめていきたい。

副住職

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小鳥のお墓。

| コメント(2) | 11年07月02日

先日、幼稚園で小鳥が亡くなって、子どもが呼びに来たので、一緒にドングリの木の下に小鳥を埋めました。そして、今日だけは花壇から花を摘んできていいよといったら、子どもたちが何人か花を摘んできて、小鳥を埋めたところに花を敷き詰めていました。

そして自分が目を閉じて手を合わせたら、みんながそれを真似て手を合わせていたのですが、それをみていた3歳の子どもが、なんでそうやって手を合わせるの?と聞いてきました。それはシンプルだけどとても深い質問で、一瞬なんて答えようか迷ったのですが、こう答えました。

例えばさ。

ピースしたまま、ごめんなさいっていうのはちょっとおかしいよね。

朝起きて万歳しながらおはようっていうのもおかしいよね。

あとさ、おうちに帰るときに変な顔したまま、さようならっていうのもおかしいよね。

こうやって手を合わせるのはね。

ありがとうを伝えるときのポーズみたいなものだよ。

いままでありがとうっていうときにはこうやって手を合わせるんだよ。と。

きっと教義とか、教えとかそういうものを厳密に突き詰めていったり、手を合わせる意味とかをちゃんと説明しようとしたら不十分だし、いい加減なように聞こえるかもしれないですが、それを聞いた子どもたちは、ふ~んといいながら、目を閉じて手を合わせて、いままでありがとういった。

3歳の子どもにそれを伝えているときに。

こういうのを方便というのかもしれないと思いながら、これから先の人生でその言葉の意味の何十分の一でもいいし、自分のいった言葉がどこかにつながって、その言葉に体感が伴ってくれたらいいなと思いました。

なんか改めて、子どもたちの中に湧いてきた、本人すらもまだそれがなんなのかわからないような気持ちとか、そういうものにそっと手を添えて、その気持ちにベクトルを向けるということはとても大事な事で、とても責任の重いことなのだということを感じたような気がします。

そして、こういう場面や、こういう日常に立ち会えるということはありがたいことだなと感じます。

幼児教育は、宗教にも通ずるところがたくさんある。頭でっかちになって、言葉遊びばかりする自分をいつもはっとさせてくれるのは、だれでもない子どもたちだったりするのです。

副住職

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宗教の本分。

| コメント(2) | 11年05月12日

例えば、だれかすごく嫌な人がいるとか、どうしょうもなく理不尽な思いをしたとか、そういう愚痴を聞くときに、目の前の人の気持ちをくみ取って、そうだね、わかるよとか。ほんとそれは嫌な人だね。本当に一方的に理不尽だね。と言えばきっと話している方は、自分の気持ちをわかってくれると思って肩の力が抜けたり、楽になったり、救われるのだろうと思います。

そこで、相手にも言い分はあるし、なんでその人がそういうことをいうか考えてごらんよ。自分の中にも落ち度はないかい?とか、一方的に理不尽だというけど、自分も同じようなことをしたことはないかい?とか言おうものなら、あいつなんだよ、全然自分のことわかってくれない。わかったような顔して腹が立つ。言われるのが落ちだろうと思います。

しかし先日ふと思ったのは、

もしも、気持ちが落ち着いて、冷静に自分のことを振り返られるようになった時に、一方的に自分の言い分をうけいれてくれて、一緒に誰かの悪口で盛り上がったり、世の中の理不尽を無条件で認めてくれた相手と、その時に自分の見えない部分を指摘して、思い通りの言葉をくれなかった相手がいたとしたら、きっと後者の方がなにかを自分の中に残してくれるような気がします。

きっと気分を変えれば乗り越えられる問題くらいなら前者でいいのかもしれませんが、人生には決して目を背けるだけじゃ乗り越えられない問題にぶつかるときがきます、その時に自分が相談したいと思うのは後者だと思ったのです。

もちろんいつも偏屈に、相手の言うことを否定するのではなく、ちゃんと気持ちをくみ取りつつも、自分の内面に目を向けさせてくれるような言葉を選んで使えるということは大切なことだと思います。

それはいうなれば、動の中にもいつも静があるような生き方というのかもしれません。動き回りながらもいつも心の中に静かに、ぶれずに、落ち着いている部分を持っているような感じかもしれません。

方便通して待機説法をするということは、そのような感じに近いような気がします。

そんなことを思いながら、先日御本山において、ご遠忌法要に引き続き、震災の追悼法要に参加させていただき思うことがありました。

自分は追悼法要に対して、現地にいる人たちからしたら、法要なんかされたって、生活楽にならないし、それよりもいまは物理的な支援だと、そんなピントのずれたことをされても困ると思う人もたくさんいるのではないかと思い自分の中でジレンマのようなものを感じました。

しかし法要が始まり、たくさんの人たちが一同に本堂で手を合わせる姿をみていて感じたのは、もしかしたら、被災された人の中には、法要なんて一文にもならないと感じる人がいるかもしれない、でもそこで慌ててなにかばたばたするのではなく、それでも祈り、手を合わせるということはとても大事な事かもしれないと思いました。

一文にならずとも、時に本堂に何百人も集まって手を合わせる。

きっとそれは無条件にあるもので、それは今だからというものではなくて、いままでも、これからもあるべき姿なのだと思いました。

それが宗教の本分であり芯なのだと思います。

祈るだけかよ、何かを願うことしかできないのかよと思う人がいるかもしれないけれど、何を言われても、いつも変わらずに手を合わせられるような自分でありたいと思いました。

動の中にもいつも静を。

その静とはつまりは本願であり、仏法なのだろうと思います。

つまるところ、宗教の本分というのは、そのようなぶれない芯を持っていることであり、その芯が何であるのかを見極めることではないかと思います。

きっと震災がなければ、自分は宗教の本分なんて考えなかったかもしれません。

この震災の中にも、阿弥陀の回向はあるとおっしゃった方がいました。その言葉が自分の中ではとても深く響いた気がします。一見誤解されそうな言葉ですが、本当にその通りだと思います。

月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ。

親鸞聖人750回、法然上人800回の御遠忌、この節目に重なるようにこのような震災が起こり、この1年というのは自分の人生にとってきっと大切な年になるのだろうと思います。

日々を大切に、味わうように過ごしていけたらと思います。

副住職


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23年お彼岸 震災に際して

| コメント(1) | 11年03月31日

 

先日大きな地震がありました。東北の方では甚大な被害が出ました。今なおたくさんの方がご苦労をされています。毎日報道の方をみていますと、刻一刻と、なくなられた方、行方不明の方の数が増えていきます。

 

それをみていて、その数字を見ながら被害の大きさを感じるわけですが、日に日にその数字を眺めるうちに、数字だけに注目してしまい、その数字の一人一人に家族がいて、子どもがいて、親がいるということを忘れてはいけないと思いました、そしてそれを思うと、とても身につまされるような思いが致します。

 

幸い関東首都圏での被害は東北ほど甚大ではありませんでした。その中で、ここ数日自分にできることはなんだろうかということを考えました。

そこで感じたのは、物理的な支援、義援金を含めた物資の支援ももちろんですが、仏教や浄土真宗を通していま自分ができることの1つに、我が身をしらせていただくということがあるのではないかと思います。

 

我が身を知るというのは、仏教において、真宗においてもとても大切なことです。仏法は鏡に例えられます、人間は時に自分の顔を鏡で照らし、いま自分がどんな顔をしているのか、どんな姿でいるのか、どんな行動をしているのか、ちゃんと見つめることで、正しい道を進んでいけるのだと思います。

 

1つこんな逸話があります。極楽の箸、地獄の箸という話です。

 

極楽でも地獄でも、食事の時には1mもある長い箸を使うそうです。1mもある箸ですから、自分で自分の口に食べ物を運ぶのは難しいわけです。そこで、極楽ではその箸をつかって、向かい側にいる人の口に食べ物を運び、お互いに食べさせあうそうです。なのでいつもお腹も心も満たされている。一方地獄では、我先にと、自分の口に運ぼうとするので、ポロポロこぼしてしまい、いつも空腹で、心も満たされないという話です。

 

いま被災地では、少ない食べ物をお年寄りや、子どもたちに先にと、譲り合い、みんなが協力をして、みんなでがんばろうとしています。あの地獄のような状況において、そこにいる方々の心の中にとても強いものを感じました。

 

一方この首都圏においては、我先に必要以上のものを買い占めるということが起こっているようです。まだ停電もありますが、電気もガスも食べ物も切迫しているわけではないところでこのようなことが起こる。どちらが地獄でどちらが極楽なのかわからないと思います。

 

もちろん生活に必要なもの、最低限必要なものを買い求める気持ちはわかります。それは決して悪いことではないと思います。

 

しかしこういう時だからこそ、仏法を通して我が身をしるということ、その中から行動し、考え発言するということがいま求められているような気がします。

 

そもそも、このお彼岸という日は、この現世を此岸、覚りの世界を彼岸と表すわけですが、この太陽が真東から昇り真西(極楽浄土の方向)に沈むその日に、覚りの世界を目指し、仏法を聞かせていただくという意味があるわけです。

 

その彼岸に至る中道の教えの中には、六波羅蜜(ろくはらみつ)というものがあります。簡単に言いますと、彼岸に至る為の、6つの実践徳目のことを指します。

 

その6つというのは、

 

布施(ふせ)

持戒(じかい)

忍辱(にんにく)

精進(しょうじん)

禅定(ぜんじょう)

智恵(ちえ)

 

となるわけですが、これを知識として自分の中にただ書き留めておくだけでなく、こういう時だからこそ、これを自分の中に照らし合わせて行動することが大切であるのではないかと思います。

 

例えば、

 

布施(義援金、救済物資を被災者に届けよう)

持戒(こういうときだからこそ、自らの生活を律しよう)

忍辱(不自由、不便に文句を言わないですごそう)

精進(自分が今出来ることを粛々とこなそう)

禅定(まず心を落ち着けよう)

智恵(デマに惑わされず正しい情報を信じよう)

 

これは自分の中での解釈ですが、それぞれがこの6つに自分の生活や行動を照らし合わせ、我が事としてとらえるということが大事なのではないかと思います。

 

そしてもう一つ、日に日に増える数字だけを見ていますと、その数字11つの命が自分とは関係ないことのように感じてしまうことがありますが「命」についても同様に、この震災を遠いところのニュースとして他人事にせずに、自分の中にしっかりと受け止めるということも大事なのだと思います。

 

白骨の御文というのがあります。この御文は蓮如上人の書かれたものです。

 

この御文の背景は、


山科本願寺(やましなほんがんじ)の近くに青木民部(みんぶ)という下級武士がいました。十七歳の娘と、身分の高い武家との間に縁談が調ったので、民部は、喜んで先祖伝来の武具を売り払い、嫁入り道具を揃えたのです。ところが、いよいよ挙式という日に、娘が急病で亡くなってしまいます。火葬の後、白骨を納めて帰った民部は、「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か」と悲嘆にくれ、五十一歳で急逝。度重なる無常に、民部の妻も翌日、三十七歳で愁い死にしてしまいました。

 その二日後、山科本願寺を財施した海老名五郎左衛門(えびなごろうざえもん)の十七歳になる娘もまた、急病で亡くなりました。葬儀の後、山科本願寺へ参詣した五郎左衛門は、蓮如上人に、無常についてご勧化をお願いします。すでに青木家の悲劇を聞いておられた上人は、願いを聞き入れられ、「白骨の御文章」を著されたのです。

 

(インターネットネットより引用)

 

そして本文はこちらです。

 

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中、まぼろしのごとくなる一期なり。

 

されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。

 

されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

 

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

この最後の一文、後生の一大事を心にかけるというのは、いう変えれば我が身を知るということであり、それは仏法を自分の問題として味わい。「諸行無常」の道理を他人事のように思わず我が事として受け止めるとだと思います。

 

今回の被災において、被災にあわれた方が不運であったというのではなく、いまここに生きている私たちの日常こそが、奇跡的な御縁と、目に見えないたくさんの奇跡の上になりたっているということなのだと思います。それをしっかりと受け止め、この一瞬をしっかりと意識して味わいながら生きなさいということです。

 

人間は自分にはどうしようもないものの中に生かされている、本当にいろいろな縁や願いの中に生かされている我が身に気づけるわけです、そこに立ち、はじめて、お腹の中から感謝の気持ち、そして謙虚な気持ちというものがわいてくる。

 

そしてその気持ちを「南無阿弥陀仏」という声にして口に出すわけです。

 

これが後生の一大事を心にかけ念仏申すということだと思います。

 

いまこういう時だからこそ、お念仏の心をもって日々を過ごし、仏法に我が身を照らして行動することが大切なのではないかと感じています。

 

そして東北の方々の一日も早い復興と、こころの平穏を願いたいと思います。

 

副住職

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ホスピスでの法話。

| コメント(2) | 11年02月09日


年末に「ホスピスで話をするなら、君はなにを話す?」と問われました。

それが年を明けてからもずっと自分の中にこびりついていて、死に際して自分が一僧侶としてできることとはなんなんだろうと改めて考えました、また「おまえになにができる?」とまっすぐに突きつけられた気がしていていました。

正直いうとはじめに「ホスピスでの法話」という話をもらったときに、自分は阿弥陀経の話でもしようと思っていました。極楽の様子を話したり、最後には倶会一処のあたりに落ちをつければいいんじゃないかくらいに考えてのです。

そして年が明けてから、ホスピス関係の本を読み、終末医療の本を読み、実際に病院で緩和医療に携わる人にも話を聞かせてもらい、いかに自分が大きな勘違いしていたのだと思い知らされました。

自分はホスピスというとことを、最後に人が死を待つ場所、もう病気の治ることのない人たちの行く場所だと思っていました。でもそこに関わる人たちの話を聞くうちに、ホスピスは、決して人間の「死に場所」ではなく、最後まで人間らしく「生き抜く場所」なんだと思うようになったのです。

終末医療という事にも、自分はいままでなにも知らなかったけど、例えば、余命の数ヶ月の肺がんの患者が、肺炎をおこしたとする、普通医療というのは、悪いところを治すのが目的だから、肺炎を治すために、抗生物質を投与するのが普通だけど、肺炎は抗生物質によってのみ治るのではなく、病気というのはなんでもそうですが、自己治癒力が正常に機能しているものを薬によってサポートするというのが正しい認識だそうです、しかし余命幾ばくの末期の患者さんにはその自己治癒能力が失われている場合が多くその多くは空振りに終わることも多いといいます。

であるならば、病気の根治を目指すのではなく、呼吸がしやすいように、気道を広げる薬や、痛みを和らげる方法に切り替えた方が、患者にとっての身体の負担、そしてなによりも身体の負担は心の負担を重くするので、そこをいかに少なくし、健やかな心を保ち、いかに自然体でいさせてあげられるかという考え方にシフトするというのが終末医療、緩和医療の考え方だそうです。

専門的な話は長くなるので、興味のある人は参考資料をどうぞ。
「死ぬときに後悔しない医療」 大津秀一

そして終末医療に関わる先生の言葉の中に、目の前の患者さんの苦痛を取り除くには、もちろん物理的な部分もそうだけど、本当に大きいのは精神的な部分をフォローできなければいけない、つまりは「病気を診るのではなく病人を診る」ことができなければいけないという言葉がありました。

その医師は、勤務医として大きな病院にいるときには、患者さんのカルテとデータを元に、患者さんをベットの上から見下ろして、病気とその症状にばかり目を向けて、その人がどんな人であるのか、どんな顔をしていて、どんな人生を歩んできたのか、そんなことはどうでもよかった。命の終わりを後ろにずらすことだけが医者の使命だと思い、それを疑っていなかったそうです。

しかし余命幾ばくもない人が、癌との合併症をおこし糖尿になったときに、血糖をコントロールして毎日身体に針を刺す必要があるのかどうか、最後に息をとった時に、心臓マッサージをされて、強心剤をうたれ心臓をうごかされ、人工呼吸器で生かされることに意味があるのかどうか、余命が数ヶ月延びると言うことは、末期の苦しみにあと数ヶ月耐えなければならないということになるわけで、その間で葛藤をしたといいます。

そこで行き着いたのが終末医療、緩和医療というものだったそうです。そこでは、患者さんの目線になって、いうなれば、目の前の患者さんの状態や気持ちをくみ取って、信頼関係の上で、オーダーメイドの治療を行っていくようなものだそうです。

目の前の患者さんが、いかに「人間らしく」生き抜いて、そして死んでいくのかを考え抜いて、行き着いたのは、人間と向き合って、そこにある命そのものに寄り添うということだったのだと思います。

こちらの一方的なモノを押しつけるのではなく、生きることにそっと手を添えるような感覚なんだろうと思います。そこには、甲斐甲斐しい世話や、一方的な押しつけではなく、それぞれしっかりと自分に向き合う時間をつくってあげること、そしてその時間の中で、それぞれがしっかりと自分に目を向け、自分自身の死を受け入れていくことができるようにすることだということなのだと思いました。

その医師の姿勢みていて、それはまさに待機説法に通じるところがあると思いました、相手の目線にたち、感情をしっかりとくみ取った上で、その人にあった方法を選択するということはまさに仏教の根本姿勢ではないかと感じました。

そう思った時に、自分自身がはじめに「ホスピスでの法話」という話をもらったときの気持ちを思いだして、自分の勘違いに気づかされました。

自分は、死に行く人たちに、その苦しみを少しでも楽にしてあげよう、自分の話でなんとか死の恐怖を和らげることができるのではないか、そんな法話をしようと感じていたのですが、それじゃまさに大学病院の医療と同じじゃないかと。相手もみないで、通り一辺倒になにを話したところで、それは違うのだと感じたのです。

今回、終末医療に携わる人たち、そしてホスピスにいる人たちの話を聞く中で、彼らからなにか真宗の中で生きる上で、また仏教を扱う上で、大切なことを教えていただいたような気がしました。

そして、その目の前の人や事実と真摯に向き合う姿勢こそ、まさに聞法なのだと思い知らされた気がしたのです。

そしてそこの医師も、そこにいる患者も、自分なんか足下にも及ばないくらいに、後生の一大事としっかりむきあって、生死の問題に向き合っていると思い恥ずかしくなりました。

そんなことを考えているときに、ある詩に出会いました。真宗のお寺に生まれた方が、余命を宣告された中での言葉です。

説法はお寺でお坊さまから聞くものと思っていましたのに、肺癌になってみたらあそこ ここと如来さまのご説法が自然に聞こえてまいります。このベッドの上が法座の一等席のようです。「今現在説法」肺がんになってここあそこから如来様の説法が少しづつきこえてきます「今現在説法」真只中でございます。

この姿勢、生き方こそがもう法話であり、自信教人信であるんだと思いました。

そして、山谷にあるきぼうのいえというホスピスがあります、そこの院長先生がこう言っていました。

この病院では、まだ誰も死にたくないといって死んでいった人はいない。

このホスピスでは、とことん目の前の人に向き合い、できる限り本人の想いを尊重するそうです。

部屋のシーツにたばこの焦げ後がたくさんあるのだけど、その数がホスピスの居心地の良さだという話もあるそうですが、その人の生き方や、性格を十分に理解して、まるごと受け入れた上で、そこにただ寄り添う。自分から距離を詰めるわけでもなく、距離を離すわけでもなく、ただそっと横に寄り添う。これがホスピスで一番大事なこと。これにいきつくまでに長い時間がかかったなといいました。

それはいうなれば、死に際した人の、心と体の苦痛をケアすることで、しっかりとその人が、自分自身に矢印を向けられるような時間をつくり、生死の問題に真っ向に向き合える環境を整えると言うことなのかもしれないと思います。

はじめに自分は「ホスピスでの法話」と聞いたときに、難易度高いなぁと感じました。でもそれがそもそも

の間違いで、生死の問題はホスピスであろうと、そうでなかろうと同じなんだと気づかされました、人生は余命80年そこいらのホスピスにいるようなものだと思えば同じなのかもしれません。そしてよほど今ホスピスにいる人たちのほうが後生の一大事を我が事として受け入れている。それなのに、自分がなにかそこで説いてやろうだなんて、はじめに「ホスピスでの法話をするなら」というとの問いに疑問をもたないということが、なによりも自分が凡夫である証拠のかもしれないとすら思いました。

ホスピスであろうと、どこであろうと、法話には違いはないということ、そこに違いを見いだしていたのは自分の至らなさであったこと、そして、法話とはやはりつまりは聞法であるのだということを実感しました。いい法話作りをするのではなく、目の前の人と向き合う姿勢そのものが法話になるような僧侶になりたいし、その姿勢でなにかを伝えられるようになりたいと思いました。

そしてなによりも、法話なんていうのは、難しく考えずに、目の前の人間と腰を落として同じ目線でまっすぐに世間話ができれば、それでいいのかもしれないと思いました。

今回はこのようなご縁をいただき自分の立ち位置を改めて顧みることができました。ありがとうございます。

副住職

 




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ランドセルの件(追記)

| コメント(2) | 11年01月17日

誰かになにかをしてあげたいと思う気持ちは意識的に起きるものでなくて、自然とわいてくるものであって、なにかを守りたいとか力になりたいというのは、そこに本当は理由なんかないんだと思います。

そういう気持ちがわいてくるということが人間のすばらしい部分で、そこだけは間違いなくて、それを否定したら人として大事なモノを見失ってしまうのではないかと思います。

ただそこでなにができるか考えたときに、人は、自分の経験と想像と視野のなかからその答えを導きだして自分の中でベストだと思う答えを出します、いうなればそこで初めて人は意識的になるのだと思います。

その答えの1つがランドセルであったわけです。

でも人間は意識的になった瞬間に、自分を通して発された瞬間に、 発する人の数だけ答えがあって、経験の数だけ真実があるわけだから、それは善悪をこえて、価値観をこえて、本当の意味での正解ではなくなるのだろうと思います。

誰かの為になりたい気持ちはすばらしい、というよりもそれは根源的なモノだから否定しようがないけれど、そこで誰かの為になりたいと思ってした行動が必ずしも相手の為にならないという可能性を秘めているんだということを忘れてはいけないと言うことが大事で、

つまりは名乗ろうと、名乗るまいと、ランドセルを送ろうと、お金を送ろうと、そういう行動に人を動かした動機は間違いなくすばらしいものだけど、今回の件を見ていて、ただその動機がすばらしいことと、その動機からでた行動がすばらしいかということは別物で、そこを切り離さないといけないような気がしました。

そこさえしっかりわかっていたら、人は生きていく上で絶対に所作にも言動にも行動にもでるんだろうと思うし、なにをすればいいかではなくて、それを忘れさえしなければ、なにをしてもぶれることなく、どんな窮地に立たされてもしっかりと筋を外さずに現実を歩いて行けるのかもしれません。

今回の件で、いろんな分野の人と話をしたり、ツイートをみていて、発する人の数だけ答えがあって、経験の数だけ真実があるわけだから、いろんな意見がでるのは当然で、そもそもそんなものは収集なんかつかないし、収集がつかないまま、平行線のままで当然なんだと思います。

ただブームが去ればだれもそれ以上この議論をしないで、一過性に過ぎて、そんなこともあったねといって、また数年して同じようなことがおこれば、同じように自分の意見を主張しあうだけではもったいないなと感じます。

大事なのはそれぞれが感じたことを自分の中に落として、生活の中に、また生き方の中に反映していくことだと思いました。

それとネット社会になって、この膨大な情報の中にあぶり出しみたいに、人間っていうものが浮き彫りにされてる気がしました。


副住職

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