寂円寺徒然日記
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モスバーガー

 

この間、世間のお坊さんに対するイメージとはなにか?かっこいいお坊さんとはなにか?ということを若い僧侶があつまって話をする機会がありました、そんな中で、自分は、やっぱり格好だけじゃなくて、中身だと思うし、お寺や跡取りだとかお寺に生まれたとか、そういう背景の前でしか胸を張ってお坊さんだと言えないのは違うと思う。と主張しました。

 

そんなことがあって数日して、ちょうどお昼時に外にお参りに行った帰りに、お昼を買って帰って家で食べようと思い車を走らせていました。そこでちょうどモスバーガーがあったので、そこで車をとめて買って帰ることにしました。

 

衣であんまり外で買い物をするということはないし、少しどうしようか悩んだのですが、別にいいだろう悪いことしてるわけじゃないし、と思い休日のお昼時のごった返すモスバーガーに入り、長い列の後ろに並んでいました。

 

その列には、家族連れ、学生さんやサラリーマン風の人、そしてお爺さん、そこに間衣輪袈裟の自分。はじめはよかったのですが、だんだんと周りの目が気になるようになりました。向こうの席では子どもが、お母さんみてみて、と明らかにコチラを指さしていますし、そうなると、みんなの心の声まで聞こえてくるようでした、お坊さんがハンバーガー食べるんだ・・・場違いじゃないか・・・というような・・・なんともいたたまれなくなり、番号札を持ってまった10分はもう1時間もまったかのような長い時間に感じました。そしてそそくさとお店を後にしました。

 

その時にふと思いました。

 

非僧非俗だなんて、わかったような口をきいていても、やっぱり自分もイメージを気にしていて、僧侶というイメージを守りたかったんだろうなと。

 

そう思ったと同時に、比叡山というお寺を下り、俗にくだり、お坊さんとか、お寺とか背景を捨てた親鸞さんのことが思い浮かびました。自分は、坊さんがなにしにきたんだという、顔をすこしされただけで、いたたまれなくなって逃げ出したくなったのに、親鸞さんがやったことは、衣でモスバーガーにはいって、そこで法話を説いて、真宗を広め、そこにいる人を真宗に教化したようなものなんじゃないかと思いました。

 

本当に自分はまだまだ器が小さいと思うと同時に、親鸞さんのやったことや、残したものの大きさと重さを思うとあたまがくらくらするような思いがしました。

 

例えが極端かもしれませんが、俗をすて出家したのがお坊さんで、それは俗とはきりはなされていますが、真宗のお坊さんは、非僧非俗ですので、僧でもなく、俗でもなくその間にいるというのは、衣をきているけど、ハンバーガーはたべますよ。そこの立ち位置で、ちゃんとまっすぐにお念仏をして生きていきなさいというようなものかもしれません。そこで後ろめたさを感じる自分はまだ、凡夫である自覚もできていないのに、非僧非俗だなんていう、口だけ真宗になってしまっていたなぁと思うと同時に、これをちゃんと自分の生活に落としていくというのは、並大抵のことではないことで、真宗というものの奥深さを痛感した気がしました。

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